だから私は魔法の絨毯に乗りたいだけ

きまぐれメモリアル/日常エッセイ/それでも私は元気です

世界に祝福の香りを

匂い、香り、というものは、ふと昔の出来事や自分の心情を思い出すファクターになる。

それは時に、文章よりもダイレクトに、写真よりも刻銘に、主観的な記憶を蘇らせるものではないか、と思うほどである。

 

たとえば私は、「エレベーターのにおい」に異常に興奮する。

エレベーターの香りをかぐと、どうも心臓がドキドキして、ワクワクしてきてしまうのだ。

大学生までなんとなく「エレベーターのにおいは大体の人が興奮する」とぼんやりと信じていたのだが、たいして仲良くない友人とエレベーターに乗り合わせた際、「エレベーターのにおいってなんかいいよね、私興奮する」という旨の会話で場をつないだとき、否定の言葉と怪訝な目を向けられたことがある。

そのときになって、どうやらエレベーターのにおいに全人類の興奮を催す作用はないらしい、ということを学んだ。

本屋さんで便意を感じる、というような、明確な科学的な根拠がなくても何人かの共感を得ているものはたくさんあるのに、エレベーターはそういう類ではないのか、不思議なこともあるものだなあ…とゆるゆると理由を考え続けていた。

帰省し、数年ぶりに実家の近所のスーパーに行ったとき、脳天を突かれた思いがした。そのスーパーのエレベーターこそが、一番私の心を揺らしたのである。

なぜ?と思ったとき、私の導き出した結論がこうだ。

私の生まれ育ったまちは、大変な田舎であった。

例えば最寄のイオンは車で1時間弱のとなりの市へ繰り出す必要があり、市内のレストランやカフェ、本屋やスーパーは広大な敷地を生かした1階建てである。

そんな中、生活圏内で唯一の3階建て(といっても、屋上は駐車場なのでの実質2階建てなのであるが)建物が、そのスーパーだったのである。

そして、私の生活圏内で唯一エレベーター・エスカレーターがある施設だった。

母は専業主婦で、スーパーへの買い物は私が学校に行ったり友達と遊んだりしている間にたいてい済ましてしまう。

そんな中で、たまーに訪れるスーパーへ同行できるチャンス、それこそが私の興奮の原動だったのではないか、と思うのだ。

スーパーはいわば非日常であるし、同じ建物内にかわいい文房具屋やおもちゃ屋も入っていたから、好きなおやつやおもちゃ、文房具を買ってもらえるチャンスもある。

車にだって乗れるし、途中にあるたこ焼きも買ってもらえるかも。

そんな唯一のトキメキが、「エレベーター」の存在するそのスーパーだったのだ。

だから、屋上の駐車場からあのエレベーターに乗って店内へ入ってゆく、そのプロセス途上にかぐエレベーターのかおりが、たまらなく私を興奮へといざなっているのであろう。

そして条件反射的に、まるでパブロフの犬のように、20代も半ばにきた私にも、そんな興奮を与えているのだろう。

 

 

 

最近、はやりのCOVID-19で、緊急事態宣言があって外出を自粛したり外国にいけなかったり、目に見えないものに怯えたり自分を疑ったり、とても非日常で、ある意味なかなかに思い出深い日々になっている。

部屋でぼんやり家にいると、この不安な日々の思い出のにおいは何になるのだろう、と思うことがある。

なんせ85歳の私の祖母に「こんなことは生まれて初めて」と言わしめたコロナ禍である。これから私の人生が恙なく続くとして、こんな経験は最初で最後だ…と思いたい。

怠惰な性分ゆえか、自粛期間中に何か新しい試みをはじめたりしなかった自分には、家に出なかった数か月、なにかメモリアルな思い出が何もない。ただ家から出られず友達とも過ごせず、テレワークも慣れずひたすら出前とウーバーイーツに助けてもらった、そんな思い出だけである。

まだまだ予断を許さない状況の中、終わったあとのことを考えてもなにの意味もないのだが、この自粛の記憶もゆくゆくは風化するであろう中で、何がこれからの人生でこの記憶を思い出すトリガーになるのであろうか。

テレワークのために買ったイスか、友人とのリモート飲み会のときに飲んだ赤玉ワインと鬼ころしの味か。それとも、もうずっと、あの外に出られなさ過ぎて狂うかと思ったことも、つらかった記憶も、これから訪れるアクティブな記憶に上書きされていつか客観的な事実でしか思い出せなくなってしまうのか。だって、もうすでに、あのときの心情の記憶なんて薄らいでいるのに……

 

 

そう風呂で逡巡する刹那、むせかえるような甘ったるいにおい。

ああ、そう、このにおいを毎晩かいで、せめて気持ちだけは非日常なリゾートを想いながら自粛を乗り越えてきたのだった。

 

私を落ち込む気持ちから少しでも跳ね上げてくれたもの。

それは、崇高な教授のひとことでも、あこがれるアイドルの写真でも、見えざる神を信ずるバイブルでも何でもない、

ただグアムのスーパーでそれぞれ数ドルで手に入れた、あまったるいココナッツのにおいがするシャンプー・リンス・ボディソープ、ただそれだけ。

 

 

ああきっと、すべてが丸く収まってまた毎日飲み歩けるようになったら、この不安定な気持ちもつらかった記憶もすべて忘却の彼方へゆくに違いない。

ただ、あのいかにも人工的なあまったるいにおいが鼻をふと掠めたとき、

きっとその時に、そんなこともあったなと心からの安堵を世界に贈れることになる、そう信じて日々を乗り越えてゆくしかないのだ。

 

 

 

 

 

 

椎名まるか