だから私は魔法の絨毯に乗りたいだけ

きまぐれメモリアル/日常エッセイ/それでも私は元気です

休暇が人を社畜にする

去年は、合わない上司と仕事をすることにうんざりしていた。

二回りも上のおじさんに、彼の情緒が安定しない日に理不尽な喧嘩をふっかけられて、信じられないほど疲弊していた。

グレにグレたわたしは、お盆も過ぎた、なんでもない夏の平日に、10日間ほどの有給をとった。

外資系企業ならいざ知らず、私の勤め先は典型的なJTC、日本の伝統的な会社である。10日間の有給はやりすぎか…と私も少しおもったが、もう仕事なんて辞めてやるからどうでもいいか、という勢いだった。

周りも私にどちらかというと同情的で、10日の休みくらいで鬱憤が晴れるなら仕方ない…とみなしてくれたのか、有給申請は無事に通り、休みをもぎ取った。

さて、10日も何をしよう……と考えて、すぐに姉に連絡を取った。

安定思考の私とは対照的に、私の姉は、割と大胆な女である。彼女が現在定職についているかは知らないが、どんな状況でもおそらく、彼女なら10日間の旅行に付き合ってくれるという自信があった。

連絡をとってみたら、彼女はちょうど幼稚園児の息子とセブ島に留学に行こうか検討中ということだった。

せっかく10日間あるのにセブ島か、どうせならもっと遠くのヨーロッパまでも行けるが…と思わなくもなかったが、そういえば昔留学に少しの憧れを持っていた自分を思い出し、私も参加させてもらうことにした。きっとこれが人生で留学をする最後のチャンスになるかもしれない。

 

セブ島では、午前中2時間ほどマンツーマンで座学をして、午後は先生を従えて観光ができる、といった、ガッツリ勉強をするというよりも、現地のガイドと運転手がつけられるツアーと言ったような感じだった。

午前中の座学ですら、観光に変更ができる。

座学用に教科書が支給されたものの、最終的に教科書を触ったのは最初の2日間、累計4時間弱だけだった。

先生を連れての観光は、先生とのご飯代や、先生のチケット代、タクシー代など、観光でかかる実費についてはすべて負担しなければならない。

毎日、外食したりデリバリーしたりしてご飯を食べて(ちなみに食事はそんなに好みではなかった)、

毎日、どこかへ遊びに行ったり買い物をして、

毎日、可愛いものを探して、

毎日、楽しいアクティビティを探す。

セブ島の水族館で、ドクターフィッシュに足を食われながらふと時計を見る。11時だ。

日本にいたら今ごろあの定例の会議に参加していただろう。いま、あの会議で私の欠席はどう伝えられているのだろう。いや、そんなことはどうでもいい、今は私は社会人じゃなくて留学生だ。

アラサーの汚い足を一心不乱で食べ進めるドクターフィッシュをみていた。くすぐったくて不快だけど、このドクターフィッシュの餌になるために、私はいくらかお金を払ったのだ。ああ、もうすぐイルカショーがはじまる。イルカショーが始まるまでに、あの売店でみんなの分のソーダを買わなくちゃ。

 

ふと、日本での日常が頭を掠める。いま日本では、同僚たちが働いている。あの嫌な上司ですら、会社の歯車として日本経済で何かを生み出している。

一方私は、ほんの10日間だけど、セブ島で毎日毎日何かを消費するだけの人生だ。

自ら餌になっても、ドクターフィッシュからお金を取ることはできない。ドクターフィッシュも、そこに私の足があるからしぶしぶつついてくれているだけだ。魚の味覚センサーのことは知らないが、くたびれたアラサーの靴擦れまみれの足の皮よりも、ホームセンターで売っている魚の餌の方がよっぽど美味しいに違いない。彼らは私を接待してくれていて、私がそれにお金を払っているだけだ。

ほんの10日間だったが、何も生み出さず何かを消費するだけの日々に、少し違和感を感じてきた。

 

人は、何をしに生まれてきたのか、考えることは誰にでもあるはずだ。

生まれてきて30年近く経つが、人生で誰かに何かを与えてきたことよりも、与えてもらったことの方がよっぽど多い。色んな人にいろいろなものをもらって、学んで、今まで生活してこれた。

それは、色んな形である。ありきたりだが家族からの愛や、友人からの優しさ、恋人からの気遣い、同僚からの助け。たくさんのものをもらって、今までやっと生きて来れたと思う。

与えてきてもらったそのどれもが私を作る上では不可欠で、必要なものだったと心から思う。与えられたことの全てを少しずつ吸収して、いまの自分が形作られたとも思う。いわば私は、周りにいる色んな人の好きなところが、ほんの少しずつ混じっている、そんな風に思う。そして私は、今までたくさんの人がたくさんのものを与えてきてくれたことに大変感謝している。

そんな自分が、これからどう生きようと考えたとき、やはり何かを与える側に憧れてしまうのは自然なことだと思う。

セブ島の生活は、たくさんの人が親切にしてくれたし、その親切のためにたくさんお金を使った。セブ島は、本当に何かをもらうだけ、消費するだけの生活だったから、少し飽き飽きしてしまった。

では反対に、何かを与える、生み出す生活とは?と考えた時に、やはり一番わかりやすいのが労働なのかなと考える。需要があるから、労働は生まれる。自分が雇用されたり誰かからお金をもらっているという事実だけで、その業務に需要があることの証明になる。

 

働くことは嫌なことも多い。後悔することもたくさんある。だけど、働いて何かを稼ぐことは、確実に誰かの需要に応えていて、誰かに何かを与えているのだ、ということをかみしめて、充実感を持って働いていきたいとおもう。

と、仕事を辞めてやると休暇をとってセブ島にいったのに、逆に少しワーカーホリックな自分の性質に気づいて帰ってきてしまった。

足ることを知ることはとても難しい。違う環境に身を置いてこそ、いままでの生活が足りていたことを実感するのだ。

そして、未来の私、念願かなってもし駐在妻になれても、短期間で働いていないことに嫌気がさすかもしれないので、よく考えて決断するようにしてほしい。人生は色々だ。