だから私は魔法の絨毯に乗りたいだけ

きまぐれメモリアル/日常エッセイ/それでも私は元気です

生まれてはじめて一人でおしゃれなカフェに行けたときの話

突然だが、私は一人で何もできない人間である。

趣味が旅行なわりに、一人旅に出た事は無いし、そもそも一人でのごはんは勿論、とくに必要に駆られていないが素敵なものは欲しいなあというような買い物だって一人で出来やしない。

素敵な服や化粧品なんかは友人と出かけたショッピングで調達し、出先でおなかがすいた時は唯一行ける家の近くのすき屋を訪れ、行きたい場所があれば友達を何度も誘う。

そんな日々を過ごしてきたので、こんな自分は絶対に一人で生きていけないなあ、親や友達や配偶者におんぶにだっこで生きていくしかないのだなあ、とぼんやりと自分の将来を案じている。

 

 

そもそも、何故一人でご飯や買い物ができないのだろうか?

 

もともと、外に出るのは好きだ。目いっぱいのオシャレをして、かっこいい音楽を聴きながら外の町を闊歩するのも、なんとも言えず気持ちがいい。

ああ、私ってスーパーモデルみたいだなあと思えば、13センチのヒールだって苦にならない。

私はなんとなく「カッコイイ女」になりたいという理想がある。カッコイイ女は一人でご飯をたべたり一人でハイブランドのコスメや服を買っているイメージを持っているが、理想だけではなかなか自己実現に到達できないものだ。

 

ああ、人に変な目で見られるのではないかと危惧している?

まさか、思春期でもあるまいし。

というか、自分が誰かと出かけていてあの人一人でご飯食べてるよ、なんて思ったことない。というか、気にしたことすらない。

そら、中学生とかだったら、友達いないんじゃないかと思われたりしないかなあと思ったりとかあるかもしれないが、今やネオンカラーや原色で街を闊歩するぐらいに他人からの評価に興味がない私だ。

袖触れ合うも他生の縁というが、もう一生会わないであろう現世のわたしの人生の「通行人A」にどう思われるかなど知ったこっちゃない。

大事な友達に「あなたがその服を着続けるならば友達をやめる」と言われたら、その子と遊ぶときには町の無難な店でマネキンが着ている服を一式買うかもしれないが、幸いなことに私の周囲の人は(口に出さないだけかもしれないが)わたしの個性を容認してくれている。

 

それでは、何故?

コロナウイルスがどうと騒がれている中行ってみた岩盤浴の中で熟考しても、答えは分からなかった。ただじっとりとしたほてった汗が首筋を伝うのを感じて、私はぼんやりとまあええか、という5文字を思い出していた。

 

 

まあ別に今のままでも困らないけれど、できれば一人で行動できるような人間になった方がいいよなあ、と思っていた矢先、あるチャンスが巡ってきた。

会社帰りに趣味でやっているアカペラの練習の前に、1時間ほど暇ができたのだ。

メンバーたちにご飯を食べようと誘ったが全員いけないとのこと。だが家の最寄りのすき屋まで戻るのは時間がないし、これはここで食べなければならない。

「練習場所の最寄り駅 おしゃれカフェ」という、いかにも田舎の女子高生のはじめての上京のような検索ワードで、めぼしい店を見つけた。

レビューを見ると、本格的なスパイスカレーとのこと。

寒いし体調がすぐれなかった私はスパイスとカレーという栄養満点っぽいワードに心ときめきながらカフェへ行った。

 

食べログが3.56だったので、本当に緊張したことを覚えている。

目の前へ行くと、小さな店が見えた。

ちらりと窓をのぞくと、…誰もいない!

食べログ3.56てこんなもん?と一抹の不安を覚えながら扉を開く。

一瞬の静寂のあと、聞こえる店員さんのいらっしゃいませの声。

この瞬間、私は店に入ることに成功したのだ!なんと素晴らしいことか!

あいている席におずおずと座り、一番高い3種のカレーを注文する。

入れた安堵感と、注文ができた高まり。ホッと息をついた後で、私はインスタを起動した。

 

届いたカレーは、確かにスパイスが効いた、色々なにおいがする少し独特な味だった。

少しすっぱくてとっても辛くて、辛いのが得意ではない私にはなかなかの苦行であった。

コレ辛いね!と共有できる人もおらず、私はオシャレな壁と向き合い一人粛々と食べていく。時たま聞こえる金属のプレートと私のスプーンがぶつかる音が、やけに耳に響いた。

いつ終わるんだろう…時が止まっている感覚に陥りながら、作業のようにスプーンを口へと運ぶ。口内が痛くて、泣き出したいが泣いたとて誰も助けてくれない現実に戸惑う。

冬なのに少し汗ばみながら、やっとのことで完食した。傷ついた舌を癒すため水を飲みながらピッコマで漫画を5話見てから、お金を払って外に出た。

 

吹きすさぶ風と、いつの間にやら降っている雨に晒されながら、なんともいえない喜びと達成感がわたしを駆け巡った。

 

ああ、私の欲求や意思は、誰にも奪われない。沢山の自由と権利が私には与えられている。

この世界にあるものなら、いや、もしかしたらないものだって、なんだってできる!

まとめると、この世界、全部私のものだ!

 

世界征服者のような気持になりながら、私は昔ツイッターで見た、うろ覚えなスナフキンの名言を思い出していた。

(綺麗な景色の話?をして、それはスナフキンのものか問われた?とき)「僕のものではないよ。でも、僕が見ている間は僕のものかもしれないね」

この言葉をツイッターで見た時は、いったいどういうこと?何が名言なの?と思ったものだった。

だが、今のわたしは身に沁みてわかる。

私のカレーを食べることも、オシャレなカフェに行くことも、見ている景色も、全部全部わたしの権利であってわたしのものだ!

そういえば、私を拘束していた教習所が全部終わった後、チャリで深夜の京都を滑走したときも、似たような気持になっていたことを思い出した。

 

 

 

一人で何かができることは素晴らしい。

それは崇高なものから、些細なものまで全部。

自分に責任をもって行動できる自由があることだから。

今回、一人でオシャレなカレー屋さんでカレーを食べてみて、わかったこと。

私が怖れていたのは、他人からの評価ではなく、「私はオシャレな店には釣り合わないのではないか?」という自分への評価だった。

だから生活必需品は一人で買いに行けても、オシャレな服や化粧品を店頭で見るのは憚られていたのだ。

でも別に、世界は拒まないし気にしない。ただ自分が、店への過剰評価と自分への過小評価を行っていただけのこと。

経験を積んで、自分自身の評価を自分で上げていくこと。

これが私の「カッコイイ女」への第一歩なのだなあと、漠然と思った。

 

向上心のない人間はばかだ、と誰かが言っていたらしい。もちろんそうだ。向上心がなければ、何も進歩しないし、生産性も生まれない。

だけど実は、気づかないうちに自分自身で設定した目標まで、もうとっくに達成していることは沢山あるのではないだろうか。

世の人々が、周りの評価を過剰に気にせず、自分自身をポジティブに捉えられるような、そんな世の中になればいいなあと願っている。

 

 

ただ私は、もう一人でおしゃれカフェは極力したくない。

それは、ただ単純に料理を待つ間が暇なのと、味や思い出の共有が出来ないからだ。

まずいものやおいしいものも、一人だと自分の思い出で終わることが、なんとなくもったいなく感じてしまう。

「前食べたアレまずかったね!」と笑いあえる友人や家族がいることを、更に幸せに、誇りに思った一日だった。