世界の宗教をあげていけば枚挙にいとまがない。
上記宗教ひとつをとってもとてもカウントできないほどの流派が存在しているのだろうし、日本というほんの小さな国だけでも、いろいろな宗教に出会う。
犬が死んでしまって、「命」が消える可能性をはじめてかみしめた今となっては、その人々が信じる宗教そのものが、本当に存在するのか?という問いが頭をめぐっていた。
たとえば人は死んだらどこに行くのか、生まれ変われるのか、もし裁きがあるとしたらどのように裁かれるのか、、そんな一つ一つの論点が、それぞれの宗教・宗派によって異なっていることが不思議なのだ。
ずっと昔、幼少期に、親に死んだらどうなるのか、ということをふと質問してみたことがある。
それに対し、「世界にはいろいろな神様や仏様があるので一概には言えないが、死んだ瞬間に信じていた教え通りにことが進むのではないか」と答えてもらった。
人間というのは不思議なもので、大人になっても幼少期親の言ったことをなんとなく信じているものだ。
来世では鈴木亮平の隣人に生まれるため、公衆トイレのトイレットペーパーの芯を代えたりしている私は、生まれた家が田舎の仏教徒だったこともあり、仏や先祖からの守護やお盆といった概念などを非常に重視している。
お盆になかなか帰れないときは、罪悪感がままあるし、部屋で自作のダンスなど踊っているときは、目に見えない誰かが私のことを冷めた目で見ているのではないかという漠然とした不安に襲われたりする。
そのような自分の生活を振り返ったり、いろいろな宗教の教義を調べたりすると、かったことが一つあった。
それは、宗教は昔の「法律」のようなものだ、ということだ。
たとえば、今私が人殺しをしてしまったとして、刑事では懲役などを科され、民事では多額の損害賠償義務を課されるだろう。
そのような法律があれば、どれだけイヤなやつが人生で現れても、「将来を棒に振るし、お金もスッカラカンになるからやめよう」という抑止力になるわけである。
宗教も同様、人殺しをした場合は八つ裂き地獄に落ちる、みたいなことを書くと、「八つ裂き地獄に落ちたくないからやめよう」という抑止力になる。
また、そのような禁止事項だけでなく、国益のためになるようなものや、日常の些細なマメ知識のような、現在では法律にするほどでもないようなことや法律にしたら反感を買うようなことも教義にはスッとおとしこめることができる。そしてそのような核でないサブの教義については、「教義だから」という理由だけで説明もなくオフィシャルにできる。
そう思うと、宗教は死後の世界が云々というよりも生きている人間をターゲットにして生きている人間の繁栄と快適な生活のために作りこまれたような、そんな印象を受けている。
そのようなわけで、基本的に宗教については非常にポジティブなイメージを持っているが、具体的に死んだあとの神様からの処遇に関する真偽については懐疑的な目線を持っていた。仏教・日本神道はまあ本当だろうが、ほかのものって…という感じだ。
そのような価値観が、一変することが起こる。
外国や日本で旅をしたときに、古い宗教施設の見学にいくことは、本当によくあることだろう。
日本では寺に神社、ヨーロッパでは教会や大聖堂、アジアではモスクなど、人生で一度も行ったことがない人などきっといないだろう。
私も、京都に住みチャリンコで寺や神社まで滑走したり、スペインやアメリカ、フィンランドで教会・大聖堂を見たり、マレーシアやブルネイでモスクを見たり、割と宗教施設については見学してきた。
それに、そのどれもが本当に素晴らしく、美しくて、たとえば大昔にできた立派な建物にため息をついたり、大きく鮮やかな見た目や中の大きくて美しいじゅうたんにうっとりしたり、なんというか、陳腐な言葉だが心が洗われる気がする。
なんだか、違う雰囲気に対する畏怖のような、荘厳さに涼しげな空気を感じるのだ。
そして私の宗教観を変えた大学の卒業旅行、スペインに行ったときのこと。
スペイン留学をしていた友達に、大きな教会に案内してもらった時のことだ。
そこも本当に美しくて、ため息が出た。
静かで荘厳で、たまに合唱(もしかしたら讃美歌かもしれない)の声も聞こえる。
美しくて、気持ちが止まらなくて、お互いに無言だったがここに座っているだけでいつまででも居られるなあと思った記憶がある。
友達は建物のつくりの解説や、いつ作られたものといった補足情報もくれた。
そして彼女はこう付け加えた。
「こんなに立派で美しいものを作ってもらえたんやから、神様って本当にいるんだねえ」と。
私はその言葉に深く納得したのを覚えている。
きっとこの建物を作るのは非常に苦労があって、何人何百人何千人もしくは何万人の延べ人数で作業しただろう。
そんなにたくさんの人が、場合によっては命を賭してでもつくったのだから、確かに間違いなく神様はいるのだ。
これはスペインの神様、キリストだけではなく、大きなお寺を作ってもらった仏様、立派な神社の神様、美しいモスクを作ってもらった神様。
細かいことはわからないが、全部が全部、存在は事実で、私がこんな神聖な場所にいるのも恐れ多くて。
たぶんだが、自分が死んだときも世界中の神様仏様誰の管轄なのか何らかの方法で確認が行われ、管轄の中で裁かれ、導かれ、なるようになるのだろう、という結論に至った。
だから、死んでしまった私の犬も、祖母が会いたがっている祖父も、私の行為で報いれるに違いない。会話だってできる。
どれだけ科学が進んでも、私は信じることをやめないだろう。宗教の対義語が科学なのかは知らないが。
日本で、ふと宗教の話になった時に、「無宗教です」と答えるのが一番無難、という風潮がある。
また、そもそも宗教の話題はタブー視されがちであり、あまり友人との会話に上がることも滅多にない。
少なくともこの法治国家である日本においては、「信教の自由」が憲法により認められているし、所属している宗教により不利益を被ることは許されない、という流れが社会的にある。
そのような状況下において、宗教が人とのコミュニケーションでタブー視されている、という現状が、個人的には何の意味をもたらすのかと最近考えている。
私は人の生き方を理解する上で、信条やポリシーの理解は必須だと思っている。
そしてポリシーを理解する上で、信仰している宗教の理解が一番手っ取り早いと思う。
多様性が叫ばれて久しいが、そろそろ宗教に対しての受け取り方も柔軟な対応が求められるべきではないかと思う。