だから私は魔法の絨毯に乗りたいだけ

きまぐれメモリアル/日常エッセイ/それでも私は元気です

石鹸を愛している、という話 1

 

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を愛している、という話

 

スポーツに舞台、歌にダンス…世界に、「趣味」と名乗られているものはいったいいくつあるだろう。

得意なものは?という自意識過剰な質問に答えるのは気が引けるけれども、「趣味」なんかは自分の話。大好きなものを語ることは、別に誰の咎めも受けない。

 

だから、敢えて高らかに叫ぼう。私の趣味は、「石鹸」である!!

 

石鹸、と聞いて、ひとは、はあ、と思うかもしれない。全く興味はないかもしれない。そらそうだ。だって私という他人の趣味だもの。えてして、ひとは他人の趣味や好きなものなんかに興味なんてないのである。興味を示されるのは、鈴木亮平とか、そんなたった一握りのイケメンや美女だけ。分かっている。でも、抗えない自己顕示欲があるから、ついつい語ってしまう。どうか許してほしい。もしかしたらそこらへんの電柱に語っとけと思われているかもしれないな。きっとこんな私みたいな人間が沢山いるから水商売の人々はこの世界で活躍なさっているのかもしれない。

 

とりあえず、石鹸の魅力を語りつくすことにうつることにする。

 

たしかに、「石鹸」とはモノである。ただの。「趣味」の一端を担えないのではと思われる程ちっぽけな、ただ私が好きな「モノ」というだけ。でも、石鹸には確実に抗えない魅力があるのだ。

 

 

まず、石鹸の定義からおさらいしよう。ちなみに、この定義は椎名まるか論であり、一般の論とは多少定義が違うかもしれないということは申し添えておく。

 

石鹸とは、

①固形である(液体・ジェル・クリーム状のものは省く)

②水につけてごしごしすると水に溶け込み、泡がでる(でる泡の状態は基本的に問わないが、あまりにも泡と呼べる状態でないものは省くex. つけた水によってのみ発生したと思われる泡など。いわば、糖尿病の人の尿の泡立ちのような)

③なんらかのにおいがする(いい匂い・くさいにおいは問わない。とんでもなく素敵な宮殿のバラのようなにおいがしても、嫌いな上司のウンチのようなにおいがしても、または無機質なプラスチックのようなにおいがしても、いずれも③を満たすこととする)

 

 

このような物体が、一体なぜヒトを惹きつけるのであろう。上記の定義に沿って、ひとつひとつ解説をしていく。

 

 

①固形である

 

これは、石鹸を大きく定義づけるファクターであるが、それと同時に、日本人の生まれ持ったいわば「和の心」、もっといえば「わびさび」に基づくものだといっても過言ではないだろう。

花はなぜ美しいのか?そう聞かれて、どう答えるだろうか。「いいにおいがする」?「色が鮮やか」?「自然の生み出した形に感動する」?そのどれも正解だがそのどれも間違っているとしか言えない。

日本人たるもの、答えは勿論、盛者必衰の理。「花は散るからこそ美しい」のだ。

かの有名な能のパイオニア世阿弥。彼もこのように言っている。

いづれの花か散らで残るべき。散るゆえによりて、咲くころあればめづらしきなり。」

偏差値70の私が一応解説しておくが、現代語に訳すと「一体なんの花が散らずにいるであろうか。散るからこそ、咲いているときが素晴らしいのだ」ということだと思う。たぶん。(めづらしは、現代語でいう珍しいではなく、素晴らしい!ブラボー!みたいな称賛する言葉だった気がする)

 

つまり、固形石鹸もそういうことだ。なくなってゆく過程が目に見えてわかるので、いとをかしである。

たとえば、ハンドソープをはじめ洗顔料やシャンプーなど、チューブ状や、ポンプ式の洗剤は沢山でている。

だが、チューブ式やポンプ式の洗剤は、「減っているな~、もうすぐなくなるのかな?」という実感が皆無である。

たとえばチューブ式の洗顔料や歯磨き粉は握りしめてむにゅむにゅぶりぶり出して何も考えず怠惰に毎日使い続け、しばらくたってから急に「そういえば、コレもう軽くなったな…そろそろなくなるか?」と思ってからいつなくなるかビクビクし、といっても全くなくならず、もしかしたらまだ使えるのでは…いやでももう最後かな…と何度も考えて、精神的に不安定なまま最期はチューブを折りに折った無様な姿で一生を終える。

 

また、ハンドソープやシャンプー、マウスウォッシュなどが多いポンプ式の洗剤は、買ってしばらく使っていたら忘れたころに急になくなってしまう。

忙しい毎日の喧騒に巻き込まれて、スコスコいいだしたそれを歓迎する心の余裕は持てない。むしろ疎まれて一生を終えると言ってもいい。

「シャンプーなくなった!だっる」という言葉、人生で一回は使ったことがあるのではないだろうか。また、一回は聞いたことがあるのではないだろうか。

それもすべて、ポンプ式につめられて売り出されたことが全ての原因なのだ。

 

一方固形石鹸はどうか。

まず、毎日残量が目に見えてわかる。忙しい毎日でも、確かに手に握って、重さや触感を感じて、「ああ、昨日より減ったな」と人生や時間のはかなさを感じられる。

なんなら、使った後で、「ああ、使う前より確かに減ったんだろうなあ」と思うと、石鹸としての宿命を感じてなんだか切なくなる。と同時に、自分も命をすり減らして生きているんだなあ、と実感できる。

形がだんだん丸みをおびてくるのも非常に趣ぶかい。そこを自分が削り取った、という達成感と、一番最初のごつごつ感から、なめらかになっていく過程。

むしろ痛いくらいの角がするどい石鹸を使っていると、ああ、そういえば昨日はこんなことが不安だったなあ、と思う。実際はなんともなかったなあ、とも。もしかしたら、今抱えている人生への悩みも不安も、時間が経てば解決していくのではないか、とすら思う。

 

ここまで力説したら全世界にわかって頂けたはずだ。ああ、石鹸が固形である意味は、盛者必衰の理、花は散るからこそ美しいことと同義であるのか、と。

スイーツだって、直前にしょっぱいものを食べたからおいしいのだ。それと一緒だ。うまく理論構成ができているか分からないけれど。

なんともまあ、固形石鹸のめづらしきことよ。

 

ちょっと疲れたので、②、③、については後述させて頂く。

まだほんの1/3だが、つぎのハンドソープは固形石鹸にしようかな、と思って頂ける方が世界に一人でも増えたらうれしい。

 

by MARCA Sheena