だから私は魔法の絨毯に乗りたいだけ

きまぐれメモリアル/日常エッセイ/それでも私は元気です

生まれてはじめて一人でおしゃれなカフェに行けたときの話

突然だが、私は一人で何もできない人間である。

趣味が旅行なわりに、一人旅に出た事は無いし、そもそも一人でのごはんは勿論、とくに必要に駆られていないが素敵なものは欲しいなあというような買い物だって一人で出来やしない。

素敵な服や化粧品なんかは友人と出かけたショッピングで調達し、出先でおなかがすいた時は唯一行ける家の近くのすき屋を訪れ、行きたい場所があれば友達を何度も誘う。

そんな日々を過ごしてきたので、こんな自分は絶対に一人で生きていけないなあ、親や友達や配偶者におんぶにだっこで生きていくしかないのだなあ、とぼんやりと自分の将来を案じている。

 

 

そもそも、何故一人でご飯や買い物ができないのだろうか?

 

もともと、外に出るのは好きだ。目いっぱいのオシャレをして、かっこいい音楽を聴きながら外の町を闊歩するのも、なんとも言えず気持ちがいい。

ああ、私ってスーパーモデルみたいだなあと思えば、13センチのヒールだって苦にならない。

私はなんとなく「カッコイイ女」になりたいという理想がある。カッコイイ女は一人でご飯をたべたり一人でハイブランドのコスメや服を買っているイメージを持っているが、理想だけではなかなか自己実現に到達できないものだ。

 

ああ、人に変な目で見られるのではないかと危惧している?

まさか、思春期でもあるまいし。

というか、自分が誰かと出かけていてあの人一人でご飯食べてるよ、なんて思ったことない。というか、気にしたことすらない。

そら、中学生とかだったら、友達いないんじゃないかと思われたりしないかなあと思ったりとかあるかもしれないが、今やネオンカラーや原色で街を闊歩するぐらいに他人からの評価に興味がない私だ。

袖触れ合うも他生の縁というが、もう一生会わないであろう現世のわたしの人生の「通行人A」にどう思われるかなど知ったこっちゃない。

大事な友達に「あなたがその服を着続けるならば友達をやめる」と言われたら、その子と遊ぶときには町の無難な店でマネキンが着ている服を一式買うかもしれないが、幸いなことに私の周囲の人は(口に出さないだけかもしれないが)わたしの個性を容認してくれている。

 

それでは、何故?

コロナウイルスがどうと騒がれている中行ってみた岩盤浴の中で熟考しても、答えは分からなかった。ただじっとりとしたほてった汗が首筋を伝うのを感じて、私はぼんやりとまあええか、という5文字を思い出していた。

 

 

まあ別に今のままでも困らないけれど、できれば一人で行動できるような人間になった方がいいよなあ、と思っていた矢先、あるチャンスが巡ってきた。

会社帰りに趣味でやっているアカペラの練習の前に、1時間ほど暇ができたのだ。

メンバーたちにご飯を食べようと誘ったが全員いけないとのこと。だが家の最寄りのすき屋まで戻るのは時間がないし、これはここで食べなければならない。

「練習場所の最寄り駅 おしゃれカフェ」という、いかにも田舎の女子高生のはじめての上京のような検索ワードで、めぼしい店を見つけた。

レビューを見ると、本格的なスパイスカレーとのこと。

寒いし体調がすぐれなかった私はスパイスとカレーという栄養満点っぽいワードに心ときめきながらカフェへ行った。

 

食べログが3.56だったので、本当に緊張したことを覚えている。

目の前へ行くと、小さな店が見えた。

ちらりと窓をのぞくと、…誰もいない!

食べログ3.56てこんなもん?と一抹の不安を覚えながら扉を開く。

一瞬の静寂のあと、聞こえる店員さんのいらっしゃいませの声。

この瞬間、私は店に入ることに成功したのだ!なんと素晴らしいことか!

あいている席におずおずと座り、一番高い3種のカレーを注文する。

入れた安堵感と、注文ができた高まり。ホッと息をついた後で、私はインスタを起動した。

 

届いたカレーは、確かにスパイスが効いた、色々なにおいがする少し独特な味だった。

少しすっぱくてとっても辛くて、辛いのが得意ではない私にはなかなかの苦行であった。

コレ辛いね!と共有できる人もおらず、私はオシャレな壁と向き合い一人粛々と食べていく。時たま聞こえる金属のプレートと私のスプーンがぶつかる音が、やけに耳に響いた。

いつ終わるんだろう…時が止まっている感覚に陥りながら、作業のようにスプーンを口へと運ぶ。口内が痛くて、泣き出したいが泣いたとて誰も助けてくれない現実に戸惑う。

冬なのに少し汗ばみながら、やっとのことで完食した。傷ついた舌を癒すため水を飲みながらピッコマで漫画を5話見てから、お金を払って外に出た。

 

吹きすさぶ風と、いつの間にやら降っている雨に晒されながら、なんともいえない喜びと達成感がわたしを駆け巡った。

 

ああ、私の欲求や意思は、誰にも奪われない。沢山の自由と権利が私には与えられている。

この世界にあるものなら、いや、もしかしたらないものだって、なんだってできる!

まとめると、この世界、全部私のものだ!

 

世界征服者のような気持になりながら、私は昔ツイッターで見た、うろ覚えなスナフキンの名言を思い出していた。

(綺麗な景色の話?をして、それはスナフキンのものか問われた?とき)「僕のものではないよ。でも、僕が見ている間は僕のものかもしれないね」

この言葉をツイッターで見た時は、いったいどういうこと?何が名言なの?と思ったものだった。

だが、今のわたしは身に沁みてわかる。

私のカレーを食べることも、オシャレなカフェに行くことも、見ている景色も、全部全部わたしの権利であってわたしのものだ!

そういえば、私を拘束していた教習所が全部終わった後、チャリで深夜の京都を滑走したときも、似たような気持になっていたことを思い出した。

 

 

 

一人で何かができることは素晴らしい。

それは崇高なものから、些細なものまで全部。

自分に責任をもって行動できる自由があることだから。

今回、一人でオシャレなカレー屋さんでカレーを食べてみて、わかったこと。

私が怖れていたのは、他人からの評価ではなく、「私はオシャレな店には釣り合わないのではないか?」という自分への評価だった。

だから生活必需品は一人で買いに行けても、オシャレな服や化粧品を店頭で見るのは憚られていたのだ。

でも別に、世界は拒まないし気にしない。ただ自分が、店への過剰評価と自分への過小評価を行っていただけのこと。

経験を積んで、自分自身の評価を自分で上げていくこと。

これが私の「カッコイイ女」への第一歩なのだなあと、漠然と思った。

 

向上心のない人間はばかだ、と誰かが言っていたらしい。もちろんそうだ。向上心がなければ、何も進歩しないし、生産性も生まれない。

だけど実は、気づかないうちに自分自身で設定した目標まで、もうとっくに達成していることは沢山あるのではないだろうか。

世の人々が、周りの評価を過剰に気にせず、自分自身をポジティブに捉えられるような、そんな世の中になればいいなあと願っている。

 

 

ただ私は、もう一人でおしゃれカフェは極力したくない。

それは、ただ単純に料理を待つ間が暇なのと、味や思い出の共有が出来ないからだ。

まずいものやおいしいものも、一人だと自分の思い出で終わることが、なんとなくもったいなく感じてしまう。

「前食べたアレまずかったね!」と笑いあえる友人や家族がいることを、更に幸せに、誇りに思った一日だった。

宗教考

仏教、イスラム教、キリスト教ヒンドゥー教ユダヤ教、、、

 

世界の宗教をあげていけば枚挙にいとまがない。

上記宗教ひとつをとってもとてもカウントできないほどの流派が存在しているのだろうし、日本というほんの小さな国だけでも、いろいろな宗教に出会う。

犬が死んでしまって、「命」が消える可能性をはじめてかみしめた今となっては、その人々が信じる宗教そのものが、本当に存在するのか?という問いが頭をめぐっていた。

たとえば人は死んだらどこに行くのか、生まれ変われるのか、もし裁きがあるとしたらどのように裁かれるのか、、そんな一つ一つの論点が、それぞれの宗教・宗派によって異なっていることが不思議なのだ。

ずっと昔、幼少期に、親に死んだらどうなるのか、ということをふと質問してみたことがある。

それに対し、「世界にはいろいろな神様や仏様があるので一概には言えないが、死んだ瞬間に信じていた教え通りにことが進むのではないか」と答えてもらった。

人間というのは不思議なもので、大人になっても幼少期親の言ったことをなんとなく信じているものだ。

来世では鈴木亮平の隣人に生まれるため、公衆トイレのトイレットペーパーの芯を代えたりしている私は、生まれた家が田舎の仏教徒だったこともあり、仏や先祖からの守護やお盆といった概念などを非常に重視している。

お盆になかなか帰れないときは、罪悪感がままあるし、部屋で自作のダンスなど踊っているときは、目に見えない誰かが私のことを冷めた目で見ているのではないかという漠然とした不安に襲われたりする。

 

そのような自分の生活を振り返ったり、いろいろな宗教の教義を調べたりすると、かったことが一つあった。

それは、宗教は昔の「法律」のようなものだ、ということだ。

 

たとえば、今私が人殺しをしてしまったとして、刑事では懲役などを科され、民事では多額の損害賠償義務を課されるだろう。

そのような法律があれば、どれだけイヤなやつが人生で現れても、「将来を棒に振るし、お金もスッカラカンになるからやめよう」という抑止力になるわけである。

宗教も同様、人殺しをした場合は八つ裂き地獄に落ちる、みたいなことを書くと、「八つ裂き地獄に落ちたくないからやめよう」という抑止力になる。

また、そのような禁止事項だけでなく、国益のためになるようなものや、日常の些細なマメ知識のような、現在では法律にするほどでもないようなことや法律にしたら反感を買うようなことも教義にはスッとおとしこめることができる。そしてそのような核でないサブの教義については、「教義だから」という理由だけで説明もなくオフィシャルにできる。

そう思うと、宗教は死後の世界が云々というよりも生きている人間をターゲットにして生きている人間の繁栄と快適な生活のために作りこまれたような、そんな印象を受けている。

そのようなわけで、基本的に宗教については非常にポジティブなイメージを持っているが、具体的に死んだあとの神様からの処遇に関する真偽については懐疑的な目線を持っていた。仏教・日本神道はまあ本当だろうが、ほかのものって…という感じだ。

 

 

そのような価値観が、一変することが起こる。

外国や日本で旅をしたときに、古い宗教施設の見学にいくことは、本当によくあることだろう。

日本では寺に神社、ヨーロッパでは教会や大聖堂、アジアではモスクなど、人生で一度も行ったことがない人などきっといないだろう。

私も、京都に住みチャリンコで寺や神社まで滑走したり、スペインやアメリカ、フィンランドで教会・大聖堂を見たり、マレーシアやブルネイでモスクを見たり、割と宗教施設については見学してきた。

それに、そのどれもが本当に素晴らしく、美しくて、たとえば大昔にできた立派な建物にため息をついたり、大きく鮮やかな見た目や中の大きくて美しいじゅうたんにうっとりしたり、なんというか、陳腐な言葉だが心が洗われる気がする。

なんだか、違う雰囲気に対する畏怖のような、荘厳さに涼しげな空気を感じるのだ。

そして私の宗教観を変えた大学の卒業旅行、スペインに行ったときのこと。

スペイン留学をしていた友達に、大きな教会に案内してもらった時のことだ。

そこも本当に美しくて、ため息が出た。

静かで荘厳で、たまに合唱(もしかしたら讃美歌かもしれない)の声も聞こえる。

美しくて、気持ちが止まらなくて、お互いに無言だったがここに座っているだけでいつまででも居られるなあと思った記憶がある。

友達は建物のつくりの解説や、いつ作られたものといった補足情報もくれた。

そして彼女はこう付け加えた。

「こんなに立派で美しいものを作ってもらえたんやから、神様って本当にいるんだねえ」と。

私はその言葉に深く納得したのを覚えている。

きっとこの建物を作るのは非常に苦労があって、何人何百人何千人もしくは何万人の延べ人数で作業しただろう。

そんなにたくさんの人が、場合によっては命を賭してでもつくったのだから、確かに間違いなく神様はいるのだ。

これはスペインの神様、キリストだけではなく、大きなお寺を作ってもらった仏様、立派な神社の神様、美しいモスクを作ってもらった神様。

細かいことはわからないが、全部が全部、存在は事実で、私がこんな神聖な場所にいるのも恐れ多くて。

たぶんだが、自分が死んだときも世界中の神様仏様誰の管轄なのか何らかの方法で確認が行われ、管轄の中で裁かれ、導かれ、なるようになるのだろう、という結論に至った。

だから、死んでしまった私の犬も、祖母が会いたがっている祖父も、私の行為で報いれるに違いない。会話だってできる。

どれだけ科学が進んでも、私は信じることをやめないだろう。宗教の対義語が科学なのかは知らないが。

 

 

 

日本で、ふと宗教の話になった時に、「無宗教です」と答えるのが一番無難、という風潮がある。

また、そもそも宗教の話題はタブー視されがちであり、あまり友人との会話に上がることも滅多にない。

少なくともこの法治国家である日本においては、「信教の自由」が憲法により認められているし、所属している宗教により不利益を被ることは許されない、という流れが社会的にある。

そのような状況下において、宗教が人とのコミュニケーションでタブー視されている、という現状が、個人的には何の意味をもたらすのかと最近考えている。

私は人の生き方を理解する上で、信条やポリシーの理解は必須だと思っている。

そしてポリシーを理解する上で、信仰している宗教の理解が一番手っ取り早いと思う。

多様性が叫ばれて久しいが、そろそろ宗教に対しての受け取り方も柔軟な対応が求められるべきではないかと思う。

【国立国際美術館】抽象世界・ジャコメッティ忘備録

先日、大阪の中之島あたり(いわゆる梅田からすぐそこ)にある国立国際美術館に行く機会があった。

断っておくが、私は恥ずかしながら美術館に行った記憶の一番古い記憶(少なくともわたしの主観的な記憶である。おそらくそれ以前も行く機会はあったのだろうが、大人たちがよくわからない絵や置物を長い間見つめるのをひたすら待つというただ足の痛むイベントと思っていた)が20歳のころ、徳島県にある大塚国際美術館に行った際であるという美術からかなり遠い人種と言ってよい、そんなレベルの人間である。

美術に触れあうきっかけとなったことを僭越ながら補足させていただくと、おばあちゃん子だった私は、おばあちゃんが大塚国際美術館に行き大層感動したということを聞き、まあそこまでいうなら…と美術館に行ったところ非常に圧倒され、そのあたりから美術館もええなあという漠然とした感想を持つにいたったという若輩者である。

 

子供のころは理解できなくても大人になってから美術に価値を見出している理由は、おそらく自分の美術の才能を見限ることができたタイミングだったからだろう。

子供のころは、いつだって自分が一番の超人である。自分のできないことは何もないのだ。私も例にもれず、大人になったら絶対絵も上手くなるはずと思っていた。

今や絵はおろか字すら汚い、不完全な人間になってしまっているけれど。

 

話は脱線したが、下記国立国際美術館について忘備録。

 

 

 

テーマは「抽象世界」。900円でチケットを買う。ジャコメッティと、という展覧会も同時で行っており、抽象世界のチケットを買えばジャコメッティと、という展覧会も観覧可能。

音声ガイドは500円で借りれる。こちらも抽象世界とジャコメッティ氏のぶんどちらも含まれている。

私は毎回ガイドを借りる派だが、あまり借りている人はいないようだった。というか、全体的に休日なのに客が少なく監視員の方と気まずい感じの時間を過ごすことになる。

フロアでたった一人でガイドを聞いている私はなんとなく自分で思考することをやめた人間のようで少し恥ずかしさにとらわれたが、抽象画なんて見たこともないし人生日々勉強だから、と思いなんとか心を保った。

日本語のガイドは、落ち着いた感じの男性の声でガイドしてくれた。

 

 

 

 

 

抽象世界

 

抽象とは…事物または表象からある要素・側面・性質をぬきだして把握すること。(goo辞書より)

 

抽象、という単語に漠然としたイメージしかないまま挑んだものの、入った瞬間からちょっと困ってしまった。

展示されているものもあまりにも美術のイメージとかけ離れていたからだ。

自分はキリストの人生の1シーンとか、昔の偉い人の肖像画とか、昔の世界の風景とか、そんな見たらわかるようなものにしか触れ合ったことがなかったので、何がモデルか理解できない、ただ適当に絵具をぶちまけただけのキャンバス(失礼すぎてごめんなさい)がいったい何なのかわからなかった。もはや、これを絵と表現していいのかすら。

 

こんな意味なさそうなもの(ごめんなさい…!)に音声ガイドは何か解説することがあるのかという余計なお世話や、自分も作者になれるのではないかという無粋な気持ちが膨れてきたが、これが思考の停止というものなのだと感じ愕然とした。

私の日々の誰も見ていない服のコーディネートですら、自分にだけわかる明確なテーマに基づいているのに、キャンバスを目の前にする芸術家ならなおさら何か考えながら筆を握っていたに違いない。

寝起きで何も考えていないだなんてそんなことあるはずがない。私が意味わからないからと一笑に付すだけだったら、一生思考が停止したまま、アホのまま人生を終えてゆくことと同義だ。これからも自分らしく生きていきたいなら理解に努めなければ。自分の意思を持たなければ。

そんなことを考えながら、そっと音声ガイドに手を伸ばした。

 

感想であるが、まずいろいろな人がいろいろな方法で(美術であると思ってなくても)美術を作り出すことができるようになったり、いろいろな方法で美術を楽しめるようになってきたという美術の普及という現実に対しての挑戦を感じた。

簡単に言うと、どこまでが美術としてとらえられるのか、というあいまいな線引きをギリギリまで攻めているような気がしたのだ。

こんなことを言うとやっぱり芸術がわかっていないといわれそうだが、前述のとおり芸術には疎いのだ。正直に申告しているので許していただきたい。

 

また、もうひとつ、抽象美術の主なテーマとして美術の技術の発展による収縮の危険性、のアンサーであるのかなあという印象だった。

写真機がない時代は、「現実に近いものが書ける」というだけでも賞賛されるに値する価値があっただろう。

だが、写真機もプリンターも加工アプリもある現在、「現実に近いものが書ける(絵がうまい)」という能力は昔よりも価値が低いというか、ありふれたものになっているのではないか、という問題である。

カメラもない時代の精巧な絵が賞賛されているという過程を踏まえ、美術が技術の発展を踏まえてどう付きあっていくべきなのか、という疑問の昇華方法なのかなあ、と思った。

誰もが目に見えるものが精巧に表現できる時代になったからこそ、目に見えないものを表現する、という難易度の高い技術が芸術として確立されたのだろう。

目に見えないから、基本的に他人と共有できるものではない。けど、たとえばこの風景を見るときに考えていることや日々の感情、気持ちを、たとえば形にすることができたなら、確かにこんな感じなのかなあと思いながらフロアを回った。

それでも、ついついそれぞれの絵に「目で見える」モデルを探してしまう自分に対して矛盾を感じた。

あと、作品の題名に自分の見方にフィルターがかかってしまうのも自分の理解を難航させた。

音声ガイドに全然共感できないものもあったけど、そんなときは「あの時の気持ちを絵にかくならこんな感じかなあ」という感想で乗り切った。

あと、答えを教えてくれると期待していた音声ガイドが「コレ何に見える?人によっていろいろ見え方が違うのが絵のいいところだよね!」と解説の匙を投げていたのもちょっと面白かった。やっぱわかってないんかい、とついツッコんでしまった。

 

今回、自分的に後悔したのは、一人で行ってしまった点である。アウトプットをその場でできないから、どれもがぼんやりした印象を持つだけになってしまった。

美術館でベラベラしゃべるのも問題だが、この絵は特に目では見えにくいものの表現をしていると思われるものが多かったため、なんとなくだが誰かを連れて行き、「なんかアレに似てるね」とか、「アレしてる時の自分の気持ちを絵にするとこんな感じかな」とか、なんかそういう些細なアウトプットをマメにすべきだったのではないかと後悔している。

それをお互いに共有すると、相手の予想外の一面を知れる、かもしれない。なので、私のオススメは、仲のいい友達を一人連れて行く、だ。

なんか非常に月並みな感想になってしまったが、自分という人間の底の浅さが知れてよかったのではないかと思う。

もっと崇高な世界では、もっと崇高な議論があるのだろう。芸術への道は果てしなく限りない。

これから底を深くしていくためにいったい何をすればいいかわからないが、誰かオススメの方法を教えてほしい。

 

 

 

ジャコメッティ

 

ジャコメッティさんは、ジャコを体現したゆるキャラではなかった。

れっきとした芸術家の方で、矢内原伊作さんという日本の哲学者の方と懇意にしていた、主に彫刻が有名な方らしい。

ジャコメッティ氏は、「見たものをそのままとらえる」という技法に長けていたと紹介されたが、なんとなく人間不信というか、ものごとを斜に構えるきらいがあったのではないかと思った。

展示物として、カフェの紙ナプキンに何の気なしに書いたのであろう落書きなど、本人からすればそんな展示なんて大それたことやめてと思いそうなものが多々展示されており、個人的に完璧主義なイメージを彼に持っている私はそんな落書きとか下書きとかを展示することは不本意なのではないかという余計な心配をしながら彼に思いをはせていた。

写真を撮っていいフロアがあったが、勇気が出ずにとれなかった。

 

また、彼に影響を与えたであろう世代の美術品も展示してあり、それも少し抽象画のような雰囲気だったが、すでに一番の抽象世界に浸っていたため脳はすぐに抽象モードになり、答を探し出すのは非常に簡単だった。

だが、鶴岡政男氏の「ひと」というタイトルの作品で、コレは絶対精子だ!とモデルを見た目からすぐ割り出してしまったとき、やっぱり私は美術を見た目に執着しているのだと思うと切なくなった。それでもアレは確実に精子であるという結論に変わりはないのだが。

 

 

 

 

 

本当に自分が見えている世界が他人にとって同じ景色なのか、ふと恐ろしくなる。

わたしが赤と思っている色は本当にほかの人にとっても同じ赤で、私が直線と思っているかたちは本当にほかの人にとっても直線というかたちなのか?恐ろしくなる。これは美術館あるあるだ。

帰り梅田駅へ歩く過程でも、身近な風景がアートに感じた。これもまた美術館帰りあるあるだ。

アートだなあと思った構図で一枚、自分のスマホで風景を切り取ってみたけれど、スマホ画面では生で見た時よりもずっと濁ったどぶ川が写っているだけだった。

 

抽象画入門: 視点が変わる気付きのテクニック

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現代アートとは何か

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by MarcaSheena

ウミガメ考〜本能〜

ーーーこんな思いをするくらいなら、いっそ死ねたらいいのにーーー

 

しがないオフィスで、音姫を鳴らしながら必死で神に祈るわたしは、はたから見ると滑稽なのだろう。

そういえば、昔読んだ漫画に、女子トイレには必ず男性の浮遊霊がいると書いてあったが、20代中盤社会人女性のトイレ姿も覗いてくれるのだろうか。

そんなことを考えながら、祈っても祈っても救われない、そんな思いに嫌気がさし、ついに死を考えるほど追い詰められた状況。

生とは?死とは?そんな概念を考える間も無く、ただ浮世を漂うちっぽけな自分の大きな戦い。

一体わたしが何をしたのか?悪いことでもしたか?神は、運命はわたしをどうしたいのか??

そんな命題に行き当たったのは、つい最近のことだ。

 

そう、わたし、ウンチが出なかった。

 

ただ出ないのならまあ仕方がない。

いつでも出せますぜという信号が肛門から送られてきている、それなのに出ないのだ。

 

文章にするとなんてことない。お昼休みの話のネタにすらならないようなことかもしれない。

けれど、本能に従って力を入れて、なかなか放出の快感がこない苦しみは、生殺しというか、生き埋めというか、据え膳食わぬはというか、、形容しがたい苦しみなのだ。

 

ウンチはしないと死ぬ。そんなことは常識だ。

ウンチがしたくなるのは生理的現象、すなわち本能で、出たら快感なのもきっと本能。死なないようにプログラムされているのだ。

 

人間も、突き詰めたら動物。お腹がすくのも眠たくなるのも、すべて生命活動を維持させようとする本能によるものだ。

 

だが、ああなんたること!

こんなに本能に従って、頑張っても、頑張っても、一向に報われない!!!!

5ミリぐらいは出ている気がして、ペーパーで拭くと何もつかなくて。

そのまま執務室に戻るのもお尻が気色悪いし、便意があるまま仕事の続行はしたくない。

ジャンプしてもきばっても緩めても何をしても入り口付近から動かない。

わたしが一体何をしたの?わたしになにを期待しているの??どうして私だけ苦しんでいるの???

 

その日は結局気色悪いままパソコンとにらめっこし、帰路に着いた。

 

帰路に着いてトイレにこもっても、なにをしても出てこない。

検索ワードも、

 

うんち 出ない なぜ

うんち 出したい 出ない

排便 できない どうなる

うんち 出ない 死ぬ

 

と、だんだんとネガティブに染まっていく一方。

 

調べてわかったことは、とりあえず、うんちが出ないと死ぬのだ。なんか、腸とかが爆破してみたいな感じで。

じゃあ、この肛門の気色悪さと解消できない便意を持ったまま死ぬのだな。

明らかに肛門出口付近にうんちがあるのに糞詰まりで死んだ私をみんなは何と思うだろう。

本能に抗ったように見えるのかな。ただ本能が私を助けてくれなかっただけなのに。

このまま、もう素敵な世界を見ることも、空飛ぶ絨毯に乗ることも、タイタニックに乗ることも美味しいご飯を食べることも、洞窟もジャングルも探検することもなく、糞詰まりという不名誉な死因であっけなくこの広くて未知なる世界から去っていかなければならないのだ。

 

そう思うと悲しくて悲しくて、社会人になって愛犬が死んでしまった以来、はじめて泣いてしまった。

 

数億決算処理を間違えて上司に怒られても泣かなかった。

知らない部長にキツく当たられても泣かなかった。

なにをしたって泣かなかった私が、ついに本能には逆らえなかった。だから泣いた。

その時の涙は、ドラマみたいな綺麗なものではなく、もう動物に近かった。本能に助けてもらえなかった私を、最後に動物に戻してくれた。これは世界の唯一の慈悲なのだと感じた。

 

おいおいと泣いたあとで、サランラップに包んで保管していた亡くなった飼い犬の毛をそっとなぞった。まだ死ぬまでに日にちはあるはずだから辛いけれど精一杯頑張ろうと思った。幸運にも悲劇のヒロインになったことがなかった私を、ポジティブなミュージカル女優にしてくれた犬なりの慈悲を噛み締めてまた泣いた。

 

結構泣いたので、とりあえず最後の晩餐に外の自販機で三ツ矢サイダー十六茶を買って飲んだ。その日はお風呂にも入らず歯磨きもせず寝てしまったらしい。

 

翌日は、死期が迫っているとわかっても出社を止められなかった。朝から違和感を連れて仕事をして、食欲もないまま食事。

お昼はアジフライだったように記憶している。

食堂のおばちゃんが顔パスでご飯を大盛りにしてくれ、食欲もあまりなかったが愛想笑いのままとりあえず口に運んだ。

 

2時ごろ、転機が訪れた。なんだか今までとは違った種類の便意を感じたのだ。

ロケット鉛筆押し出し理論で、食べたから出るのではという可能性が脳裏に浮かんだ。そこから先は、自分の命のために、まだ見ぬ絶景のために、将来の結婚相手と子供のために、トイレに立ち上がり颯爽と向かった。

あの時の私はきっとなによりも凛々しく何よりも力強く何よりも美しかったはずだ。

 

いつもより早足で個室へ入る。ドアが閉まり、鍵のかけられた音が静かなトイレ内で大きく響いた。

勝負の時がきた、と思った。今まで吹奏楽やダンスなど、自分の技術を極めることはあっても、何かと張り合うことは人生ではじめてだった。人生を左右する戦いに挑む、そんな崖っぷちのカイジみたいな気持ちは、今でもありありと思い出せる。

すう、と息を吸い込みスカートをたくし上げタイツを下げる。USJで買ったスパイダーマンのパンツが極彩色を放っている。この時のパンツは紛れもなく人生で一番鮮やかなピンク色だった。

 

もう外聞なんてどうでもいい。音姫もつけず、一心不乱に肛門と向き合った。しんどくて辛くて、内臓が全て出てきそうな錯覚に陥る。助けてほしいが頼れるものは己の体のみ。神への祈りも捧げる余裕もなく、必死で力を込める。昨日よりも強く、凛々しい自分がそこにいた。

 

くる、と思った。

これ、と思った。

そう思うと、激痛が尻を襲った。

硬い何かが肛門から1センチ排出されている気がした。

出てくるにはまだまだだが、昨日より5ミリは出ている。このまま油断して緩めてはいけないが、本当に痛くて痛くてたまらなかった。トイレで感じた痛み部門で、人生で一番だった。

出そうだが痛くてたまらない、このまま進むも退くも地獄とはこのことだった。

大声で叫んで誰か来てもらう?救急車をよぶ?いや、そもそも今後の人生で、この痛みを我慢する価値があるのか?

いろいろなことを考えたが、もう進むしかない。やらない後悔よりやった後悔。

 

ふんぬーーーー!!!!という声が自然と口から漏れたのは、後にも先にもこの時だけだろう。

 

大きく息を吸い、静かに吐き出す。

音のない静かなトイレ内で、私は久しぶりのすっきりした感覚に包まれていた。

言葉で言い表せないほどの達成感の波と、少しの安堵。そして更に少しの尻の痛みに包まれながら、しばらくぼーっとしていた。

目尻に溜まる戦いの結晶。涙を拭いながら私はウミガメの産卵を思い出していた。

 

 

こんなに辛い思いをして、苦しい思いをして、生きる意味はどこにあるのか?

そう考える人はとても多いと思う。

だから自ら死を選ぶ人もいるし、生に対する欲がない人もいる。

確かに、生きる意味を考えるのはとても難しい。

例えば客観的な生きる価値を考えた時に、ノーベル賞とか何かを開発するとか、そんな偉業を遺す人生を歩める人はそうそういない。

だから、動物に立ち返って考える。

ショッピングも出来ないし映画も見れない、生麩田楽も食べれないウミガメが泣きながらでも出産するのは、種の存続のため。

人が生まれるのは種の存続の結果であり目的である。

わたしは人間の生死感はそれぞれの幸福追求に依存していて、幸福追求権を持つ以上自分を煮るなり焼くなり自由にするべきだと思ってきた。

けれど、この経験を通じて、この古代から紡がれてきた命に対して少しだけでいいから責任感を持つべきであると感じた。

直近でいうと、親が泣きながら紡いでくれたこの命、せっかく世界を使い果たす権利があるなら、可能な限り使い込んでから投げ捨てても遅くはない、気がする。

もちろん、自由意志で生きる人間なら誰しも、命の選択はそれなりに可能だ。

でも、歴史に残るような偉業が残せないなら、せめて自然とくる寿命まで一つの種のごく一部として生態系を構成すること、それがヒトとしての生きる価値だと思う。

 

 

そんなことを考えながら、レバーを引いた。

ごく小さな茶色い塊がすっと吸われて、あとは白い便器が残るのみだった。

とりあえずわたしは生にしがみつく。

本能のまま、運命のまま。

 

ウミガメものがたり (単行本絵本)

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ウンチ型USB加湿器 UK-001BR

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生態系は誰のため? (ちくまプリマー新書)

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レディースデーな1日

今日は、本当になにもしない1日だった。

1ミリも動かず、ひたすらダラダラしてみたりして。

本当は、映画に行って岩盤浴に行く予定だった。

でも、なぜだか朝から生理がきてみたりして。

 

やる気も起きず、いつもより嫌いなものも増えて、面白くないことも増えて、辛いことも増えて、どうでもいいことも増えて、きがついたら布団で寝ている。

生きるために美味しくないペンネを食べて、泣きそうになりながら壁紙のシワを眺めたりして。

 

ああレディースデーってやつは、本当に罪深い。毎日ニコニコしているハッピー野郎のはずの人間を、一気に自分の犯した罪の苦しみと戦う罪人にしてしまうのだから。

 

ホルモンの乱れ?みたいなやつで、多分多くの女性が情緒不安定になったり、腹痛に苦しんだりしているのだが…、

これはもう、ああ、なんて気持ち。辛い?悲しい?そのどれも?

 

過去への償いや後悔が一気に押し寄せて、深い闇に突き落とされそうな心地だ。昨日の発言の反省、一昨日の振る舞いへの後悔、先週感じた不思議な気持ちの原因追求………

 

きっとこれは、不完全なわたしへの人生を見つめ直すチャンスに違いない。

そう思ってなんとか償おうと、改善しようとするけれども、心では自分は悪くない、と思っているのだろう。

 

話もうまくない、見た目もよくない、化粧もうまくない、ああ、なんてつまらない人間に成長したんだろう。前世はとんだ悪人だったに違いないのか。

 

人生の答え合わせはいつ?休日?結婚式?死ぬとき?

 

ああなんとも、生き方を今更変えるのは難しい。けれども、とっときの魅力のある、惹きつける魔力のある人間になりたいという欲望を抑えるのは一番難しい。

受け止めるのは辛いけど、生きて出会ってきた全ての人にわたしの悪いところ20個ずつ教えて欲しい。

 

泣きそうだが、自分に泣く資格はない。 なにも解決しないことはおろか、、、いや、もう解決しなくてもいい。

でも生まれてきたからには、生み育ててくれた家族のためにも、なんとか幸せになりたい。別に幸せじゃなくてもいい、みんなに理解され必要とされてイキイキと生きていきたい。

 

才能に恵まれたい。何か少しだけでも、素敵な才能が欲しい。お芝居ができるとか、歌が上手いとか、話が上手いとか、文章が上手いとか、絵が上手いとか、おしゃれだとか、ヘアアレンジが上手だとか、泳ぎが上手いとか、なんでもいい、ただほんの少しだけ、一握りにしか与えられない何か素敵なものが欲しい。

 

みんなが羨ましい。今を精一杯生きてるみんなが羨ましい。未来も過去も、なにもいらない、なにも考えずがむしゃらに生きていたい。なにも理解できなくてもいい。ただ人間だけが大好きで、人間だけに好かれるならほんのそれだけでいい。全員に必要とされて、笑いかけてくれるならただそれだけでいい。

 

綺麗な顔が欲しい。肌荒れもなくて、陶器みたいな肌が欲しい。クールで涼しげな口元が欲しい。外国人みたいな上向きの鼻が欲しい。

 

 

ああ、人生ってなんでこんなに辛いんだろう。なんでこんなに試練が多くて、なんでこんなに眠いんだろう。

 

きっと寝たら全て忘れてしまうから。だから、一応問いかけておく。

ご飯のことしか頭にないわたしと、嬉しいことしか頭にないわたしと、楽しいことしか頭にないわたしと、悲しいことしか頭にないわたしと、辛いことしか頭にないわたしと?いったいどれが自分の本性なんだろう??

 

よくわからないけれど、今こんなに苦しいのはきっと、レディースデーのせいだと信じている。

来週はもっとうまく笑えて、来週はもっとうまく立ち振る舞える。きっと。なんとか。

辛いことは多いけど、きっと聞いてくれる誰かがいる。きっと。なんとか。

ダメなことが改善するのは難しい、けど、自分を守らないようにして生きていける、そんな日が来たらいいなあ、って思ってる。

なぜか?に答えてくれる人は、世界のどこかにきっといるはず。

辛いけど、考えなくては。きっと、考えなくては難しいことだから。なんとか、この胸のつかえが取れるようにしなくては。

 

多分この文章を誰かが読むことも自分が見返すこともないけど、今度はちゃんと言葉に出せたら嬉しいな。なかなか言葉にできないけどね。さらっとすっと言葉に出すの。なかなか難しいけどね、でも怖がってても仕方ないから。

自分がいきた証?って、こういう些細なところに散りばめられるのかもしれないなって思う。

だってわたしも、いろんな人の証をこうやって吸収してるんだもん。

本当のわたしをわかってくれる人が、いるはず…?なきがする。世界は広いから、見つけるのは大変だけど。

 

だから、理想と現実のギャップに苦しむのはもうやめたい。たぶんこんな生理のときだけ。

 

 

レディースなデイはだいたい、世界の女性はこんな気持ち、、

映画忘備録

ローマの休日

 

前見たのは、小学生の時、年の離れた姉とだったような…。

当時は姉がなんでこんな白黒でザラザラの外人しか出てこない映画を嬉しがって見るのか意味が不明だったけど、今見たらすごくときめいた…!

なによりとっても異国情緒溢れる街並みが綺麗。白黒なのに、空も花も街並みもとってもカラフルに見えた。

今でこそ飛行機でひとっ飛びで外国の街並みなんてパルケエスパーニャに行くだけで見れるけれど、昔の人は一生行けないかもしれない、あんなにすらっとして綺麗な外国の人に一生会えないかもしれない、そんな伝説のような、桃源郷を見るような気持ちで見てたのかもしれない。

 

わたしの人生でのそんな映画がタイタニックだったことを思い出した。タイタニックの非現実的でロマンチックで、綺麗と言う言葉だけでは表現できずもはや苛立ってくるような船内は、十数年経った今でもわたしの世界観を縛っている。きっとこれを見た人も皆、これからの世界をローマの休日っぽいかどうかで測る尺度を持ってしまっているに違いない。

 

内容としては品行方正にほとほと疲れ果てた王女様がこっそり家を抜け出して外の世界をみて恋に落ちるという話。

大人同士の話で、いわゆるなんかいい感じの男女なのにベッドシーンとかはないのがむしろ新鮮な感じがする。ないからこそ、別れが切なくて、でも二人の絆が永遠に続いて行く気がするのかも。

ローマでの思い出を生涯忘れない、と語った王女様。あんなに自由で奔放な1日は、人生最初で最後になるだろうという、綺麗で素敵な言葉だがどうしても悲しさを拭えない自分。

王女様がこんなに恋い焦がれた自由な1日を、こんな家でYouTubeを見ながら寝てるだけでいいのか?という問いと真摯に向き合った1日だった。

そういえば世間から隔離されて育ったカジモドも、塔から見おろせるあの世界で1日過ごせればもう何もいらないとおっしゃっていたが、そんなに色んな人の羨望の的である自由を、こんな自堕落な時間に使ってもいいのか?人生を問い続けた1日になった気がする。

 

最後、王女様の最後のローマでのインタビュー。見つめ合う二人に、最後はさっと踵を返して振り返らず行ってしまう王女様と、最後まで未練がましくホールに残り、ゆっくりと出口へ向かう男性。

王女様が追いかけてきてくれたら…。そんな思いを無慈悲に打ち消すthe end。

ハッピーエンドじゃないと辛くて眠れないから、どうか美しい二人に幸せを。神様お願いします。

 

 

どうでもいいけど、キスシーンのとき、男のひとの首筋のシワがすごい気になってしまった…。男のほうが体勢的に無理しがちだし、オードリーヘップバーンは美人すぎて誰も無理してシワ使って欲しくないし、仕方ないのだけれど、なんかどんな人にもキスシーンではシワができるんだなと思うと悲しくなった…

石鹸を愛している、という話 1

 

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を愛している、という話

 

スポーツに舞台、歌にダンス…世界に、「趣味」と名乗られているものはいったいいくつあるだろう。

得意なものは?という自意識過剰な質問に答えるのは気が引けるけれども、「趣味」なんかは自分の話。大好きなものを語ることは、別に誰の咎めも受けない。

 

だから、敢えて高らかに叫ぼう。私の趣味は、「石鹸」である!!

 

石鹸、と聞いて、ひとは、はあ、と思うかもしれない。全く興味はないかもしれない。そらそうだ。だって私という他人の趣味だもの。えてして、ひとは他人の趣味や好きなものなんかに興味なんてないのである。興味を示されるのは、鈴木亮平とか、そんなたった一握りのイケメンや美女だけ。分かっている。でも、抗えない自己顕示欲があるから、ついつい語ってしまう。どうか許してほしい。もしかしたらそこらへんの電柱に語っとけと思われているかもしれないな。きっとこんな私みたいな人間が沢山いるから水商売の人々はこの世界で活躍なさっているのかもしれない。

 

とりあえず、石鹸の魅力を語りつくすことにうつることにする。

 

たしかに、「石鹸」とはモノである。ただの。「趣味」の一端を担えないのではと思われる程ちっぽけな、ただ私が好きな「モノ」というだけ。でも、石鹸には確実に抗えない魅力があるのだ。

 

 

まず、石鹸の定義からおさらいしよう。ちなみに、この定義は椎名まるか論であり、一般の論とは多少定義が違うかもしれないということは申し添えておく。

 

石鹸とは、

①固形である(液体・ジェル・クリーム状のものは省く)

②水につけてごしごしすると水に溶け込み、泡がでる(でる泡の状態は基本的に問わないが、あまりにも泡と呼べる状態でないものは省くex. つけた水によってのみ発生したと思われる泡など。いわば、糖尿病の人の尿の泡立ちのような)

③なんらかのにおいがする(いい匂い・くさいにおいは問わない。とんでもなく素敵な宮殿のバラのようなにおいがしても、嫌いな上司のウンチのようなにおいがしても、または無機質なプラスチックのようなにおいがしても、いずれも③を満たすこととする)

 

 

このような物体が、一体なぜヒトを惹きつけるのであろう。上記の定義に沿って、ひとつひとつ解説をしていく。

 

 

①固形である

 

これは、石鹸を大きく定義づけるファクターであるが、それと同時に、日本人の生まれ持ったいわば「和の心」、もっといえば「わびさび」に基づくものだといっても過言ではないだろう。

花はなぜ美しいのか?そう聞かれて、どう答えるだろうか。「いいにおいがする」?「色が鮮やか」?「自然の生み出した形に感動する」?そのどれも正解だがそのどれも間違っているとしか言えない。

日本人たるもの、答えは勿論、盛者必衰の理。「花は散るからこそ美しい」のだ。

かの有名な能のパイオニア世阿弥。彼もこのように言っている。

いづれの花か散らで残るべき。散るゆえによりて、咲くころあればめづらしきなり。」

偏差値70の私が一応解説しておくが、現代語に訳すと「一体なんの花が散らずにいるであろうか。散るからこそ、咲いているときが素晴らしいのだ」ということだと思う。たぶん。(めづらしは、現代語でいう珍しいではなく、素晴らしい!ブラボー!みたいな称賛する言葉だった気がする)

 

つまり、固形石鹸もそういうことだ。なくなってゆく過程が目に見えてわかるので、いとをかしである。

たとえば、ハンドソープをはじめ洗顔料やシャンプーなど、チューブ状や、ポンプ式の洗剤は沢山でている。

だが、チューブ式やポンプ式の洗剤は、「減っているな~、もうすぐなくなるのかな?」という実感が皆無である。

たとえばチューブ式の洗顔料や歯磨き粉は握りしめてむにゅむにゅぶりぶり出して何も考えず怠惰に毎日使い続け、しばらくたってから急に「そういえば、コレもう軽くなったな…そろそろなくなるか?」と思ってからいつなくなるかビクビクし、といっても全くなくならず、もしかしたらまだ使えるのでは…いやでももう最後かな…と何度も考えて、精神的に不安定なまま最期はチューブを折りに折った無様な姿で一生を終える。

 

また、ハンドソープやシャンプー、マウスウォッシュなどが多いポンプ式の洗剤は、買ってしばらく使っていたら忘れたころに急になくなってしまう。

忙しい毎日の喧騒に巻き込まれて、スコスコいいだしたそれを歓迎する心の余裕は持てない。むしろ疎まれて一生を終えると言ってもいい。

「シャンプーなくなった!だっる」という言葉、人生で一回は使ったことがあるのではないだろうか。また、一回は聞いたことがあるのではないだろうか。

それもすべて、ポンプ式につめられて売り出されたことが全ての原因なのだ。

 

一方固形石鹸はどうか。

まず、毎日残量が目に見えてわかる。忙しい毎日でも、確かに手に握って、重さや触感を感じて、「ああ、昨日より減ったな」と人生や時間のはかなさを感じられる。

なんなら、使った後で、「ああ、使う前より確かに減ったんだろうなあ」と思うと、石鹸としての宿命を感じてなんだか切なくなる。と同時に、自分も命をすり減らして生きているんだなあ、と実感できる。

形がだんだん丸みをおびてくるのも非常に趣ぶかい。そこを自分が削り取った、という達成感と、一番最初のごつごつ感から、なめらかになっていく過程。

むしろ痛いくらいの角がするどい石鹸を使っていると、ああ、そういえば昨日はこんなことが不安だったなあ、と思う。実際はなんともなかったなあ、とも。もしかしたら、今抱えている人生への悩みも不安も、時間が経てば解決していくのではないか、とすら思う。

 

ここまで力説したら全世界にわかって頂けたはずだ。ああ、石鹸が固形である意味は、盛者必衰の理、花は散るからこそ美しいことと同義であるのか、と。

スイーツだって、直前にしょっぱいものを食べたからおいしいのだ。それと一緒だ。うまく理論構成ができているか分からないけれど。

なんともまあ、固形石鹸のめづらしきことよ。

 

ちょっと疲れたので、②、③、については後述させて頂く。

まだほんの1/3だが、つぎのハンドソープは固形石鹸にしようかな、と思って頂ける方が世界に一人でも増えたらうれしい。

 

by MARCA Sheena