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【国立国際美術館】抽象世界・ジャコメッティ忘備録

先日、大阪の中之島あたり(いわゆる梅田からすぐそこ)にある国立国際美術館に行く機会があった。

断っておくが、私は恥ずかしながら美術館に行った記憶の一番古い記憶(少なくともわたしの主観的な記憶である。おそらくそれ以前も行く機会はあったのだろうが、大人たちがよくわからない絵や置物を長い間見つめるのをひたすら待つというただ足の痛むイベントと思っていた)が20歳のころ、徳島県にある大塚国際美術館に行った際であるという美術からかなり遠い人種と言ってよい、そんなレベルの人間である。

美術に触れあうきっかけとなったことを僭越ながら補足させていただくと、おばあちゃん子だった私は、おばあちゃんが大塚国際美術館に行き大層感動したということを聞き、まあそこまでいうなら…と美術館に行ったところ非常に圧倒され、そのあたりから美術館もええなあという漠然とした感想を持つにいたったという若輩者である。

 

子供のころは理解できなくても大人になってから美術に価値を見出している理由は、おそらく自分の美術の才能を見限ることができたタイミングだったからだろう。

子供のころは、いつだって自分が一番の超人である。自分のできないことは何もないのだ。私も例にもれず、大人になったら絶対絵も上手くなるはずと思っていた。

今や絵はおろか字すら汚い、不完全な人間になってしまっているけれど。

 

話は脱線したが、下記国立国際美術館について忘備録。

 

 

 

テーマは「抽象世界」。900円でチケットを買う。ジャコメッティと、という展覧会も同時で行っており、抽象世界のチケットを買えばジャコメッティと、という展覧会も観覧可能。

音声ガイドは500円で借りれる。こちらも抽象世界とジャコメッティ氏のぶんどちらも含まれている。

私は毎回ガイドを借りる派だが、あまり借りている人はいないようだった。というか、全体的に休日なのに客が少なく監視員の方と気まずい感じの時間を過ごすことになる。

フロアでたった一人でガイドを聞いている私はなんとなく自分で思考することをやめた人間のようで少し恥ずかしさにとらわれたが、抽象画なんて見たこともないし人生日々勉強だから、と思いなんとか心を保った。

日本語のガイドは、落ち着いた感じの男性の声でガイドしてくれた。

 

 

 

 

 

抽象世界

 

抽象とは…事物または表象からある要素・側面・性質をぬきだして把握すること。(goo辞書より)

 

抽象、という単語に漠然としたイメージしかないまま挑んだものの、入った瞬間からちょっと困ってしまった。

展示されているものもあまりにも美術のイメージとかけ離れていたからだ。

自分はキリストの人生の1シーンとか、昔の偉い人の肖像画とか、昔の世界の風景とか、そんな見たらわかるようなものにしか触れ合ったことがなかったので、何がモデルか理解できない、ただ適当に絵具をぶちまけただけのキャンバス(失礼すぎてごめんなさい)がいったい何なのかわからなかった。もはや、これを絵と表現していいのかすら。

 

こんな意味なさそうなもの(ごめんなさい…!)に音声ガイドは何か解説することがあるのかという余計なお世話や、自分も作者になれるのではないかという無粋な気持ちが膨れてきたが、これが思考の停止というものなのだと感じ愕然とした。

私の日々の誰も見ていない服のコーディネートですら、自分にだけわかる明確なテーマに基づいているのに、キャンバスを目の前にする芸術家ならなおさら何か考えながら筆を握っていたに違いない。

寝起きで何も考えていないだなんてそんなことあるはずがない。私が意味わからないからと一笑に付すだけだったら、一生思考が停止したまま、アホのまま人生を終えてゆくことと同義だ。これからも自分らしく生きていきたいなら理解に努めなければ。自分の意思を持たなければ。

そんなことを考えながら、そっと音声ガイドに手を伸ばした。

 

感想であるが、まずいろいろな人がいろいろな方法で(美術であると思ってなくても)美術を作り出すことができるようになったり、いろいろな方法で美術を楽しめるようになってきたという美術の普及という現実に対しての挑戦を感じた。

簡単に言うと、どこまでが美術としてとらえられるのか、というあいまいな線引きをギリギリまで攻めているような気がしたのだ。

こんなことを言うとやっぱり芸術がわかっていないといわれそうだが、前述のとおり芸術には疎いのだ。正直に申告しているので許していただきたい。

 

また、もうひとつ、抽象美術の主なテーマとして美術の技術の発展による収縮の危険性、のアンサーであるのかなあという印象だった。

写真機がない時代は、「現実に近いものが書ける」というだけでも賞賛されるに値する価値があっただろう。

だが、写真機もプリンターも加工アプリもある現在、「現実に近いものが書ける(絵がうまい)」という能力は昔よりも価値が低いというか、ありふれたものになっているのではないか、という問題である。

カメラもない時代の精巧な絵が賞賛されているという過程を踏まえ、美術が技術の発展を踏まえてどう付きあっていくべきなのか、という疑問の昇華方法なのかなあ、と思った。

誰もが目に見えるものが精巧に表現できる時代になったからこそ、目に見えないものを表現する、という難易度の高い技術が芸術として確立されたのだろう。

目に見えないから、基本的に他人と共有できるものではない。けど、たとえばこの風景を見るときに考えていることや日々の感情、気持ちを、たとえば形にすることができたなら、確かにこんな感じなのかなあと思いながらフロアを回った。

それでも、ついついそれぞれの絵に「目で見える」モデルを探してしまう自分に対して矛盾を感じた。

あと、作品の題名に自分の見方にフィルターがかかってしまうのも自分の理解を難航させた。

音声ガイドに全然共感できないものもあったけど、そんなときは「あの時の気持ちを絵にかくならこんな感じかなあ」という感想で乗り切った。

あと、答えを教えてくれると期待していた音声ガイドが「コレ何に見える?人によっていろいろ見え方が違うのが絵のいいところだよね!」と解説の匙を投げていたのもちょっと面白かった。やっぱわかってないんかい、とついツッコんでしまった。

 

今回、自分的に後悔したのは、一人で行ってしまった点である。アウトプットをその場でできないから、どれもがぼんやりした印象を持つだけになってしまった。

美術館でベラベラしゃべるのも問題だが、この絵は特に目では見えにくいものの表現をしていると思われるものが多かったため、なんとなくだが誰かを連れて行き、「なんかアレに似てるね」とか、「アレしてる時の自分の気持ちを絵にするとこんな感じかな」とか、なんかそういう些細なアウトプットをマメにすべきだったのではないかと後悔している。

それをお互いに共有すると、相手の予想外の一面を知れる、かもしれない。なので、私のオススメは、仲のいい友達を一人連れて行く、だ。

なんか非常に月並みな感想になってしまったが、自分という人間の底の浅さが知れてよかったのではないかと思う。

もっと崇高な世界では、もっと崇高な議論があるのだろう。芸術への道は果てしなく限りない。

これから底を深くしていくためにいったい何をすればいいかわからないが、誰かオススメの方法を教えてほしい。

 

 

 

ジャコメッティ

 

ジャコメッティさんは、ジャコを体現したゆるキャラではなかった。

れっきとした芸術家の方で、矢内原伊作さんという日本の哲学者の方と懇意にしていた、主に彫刻が有名な方らしい。

ジャコメッティ氏は、「見たものをそのままとらえる」という技法に長けていたと紹介されたが、なんとなく人間不信というか、ものごとを斜に構えるきらいがあったのではないかと思った。

展示物として、カフェの紙ナプキンに何の気なしに書いたのであろう落書きなど、本人からすればそんな展示なんて大それたことやめてと思いそうなものが多々展示されており、個人的に完璧主義なイメージを彼に持っている私はそんな落書きとか下書きとかを展示することは不本意なのではないかという余計な心配をしながら彼に思いをはせていた。

写真を撮っていいフロアがあったが、勇気が出ずにとれなかった。

 

また、彼に影響を与えたであろう世代の美術品も展示してあり、それも少し抽象画のような雰囲気だったが、すでに一番の抽象世界に浸っていたため脳はすぐに抽象モードになり、答を探し出すのは非常に簡単だった。

だが、鶴岡政男氏の「ひと」というタイトルの作品で、コレは絶対精子だ!とモデルを見た目からすぐ割り出してしまったとき、やっぱり私は美術を見た目に執着しているのだと思うと切なくなった。それでもアレは確実に精子であるという結論に変わりはないのだが。

 

 

 

 

 

本当に自分が見えている世界が他人にとって同じ景色なのか、ふと恐ろしくなる。

わたしが赤と思っている色は本当にほかの人にとっても同じ赤で、私が直線と思っているかたちは本当にほかの人にとっても直線というかたちなのか?恐ろしくなる。これは美術館あるあるだ。

帰り梅田駅へ歩く過程でも、身近な風景がアートに感じた。これもまた美術館帰りあるあるだ。

アートだなあと思った構図で一枚、自分のスマホで風景を切り取ってみたけれど、スマホ画面では生で見た時よりもずっと濁ったどぶ川が写っているだけだった。

 

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by MarcaSheena