だから私は魔法の絨毯に乗りたいだけ

きまぐれメモリアル/日常エッセイ/それでも私は元気です

ペットロスな日々

 

 

実に、仕事以外で執筆するのは数か月ぶりだ。

そうだ何か書こうと思いきるとき、大抵何か特別なことがある時なのだが、ちょうど大切なものを失ってみて、その私の記憶というあやふやなものしか残っていない、わたしの「大切なもの」の形を少しでもすくい上げてくっきりと残したいと思った。

 

というのも、題名通り、ちょうど1,2か月ほど前、私ははじめて、大切なものを失った。

 

それは、「家族」という名のペットである。

 

後戻りのできない恐怖。いままで大切なものを無くした事は無かったし、人生に失望もしたことがなかったが、こんな気持ちになったのは23年生きてきて、はじめてのことだった。

それは、人生の中で一番と言っていいほど悲しかった…といいたいところだが、なんだか今まで経験し、人に表現した感情の中で、適切な言葉が見つからない感情に包まれた。

悲しい、といえばその感情も少しはあったかもしれない。けれど、そんな既存の言葉では到底表現できないのだ。

あえて名づけるとすれば、それは「無」だった。

それは決して何も考えていないわけではなく、ただ、ボンヤリと、喪失感のような、心に穴が開いたような、そんな月並みな言葉では表現できない、表現したくない程の虚無だった。

五感を何も駆使出来ないような脱力感と、そのことしか考えられない集中力。

死を受けとめられない、という言葉は聞いたことがあるが、ごめんね、死んじゃったの、と涙交じりにお母さんに言われた時も、嘘のような夢のような幻のような、それでもやはり現実なような、受け止められない気もするが、心のどこか奥底で受け止めているような、体中が矛盾で包まれていた。

 

これほどまでに衝撃を受けたのには理由がある。自慢じゃないが、私は今まで大切な人を亡くしたことがなかった。

おじいちゃんやおばあちゃん等主要な人々は生まれてきたときには既に亡くなっていたり、遠いところに住んでいて人生で数回しか会った記憶がなかったりしており、実家で同居していたおばあちゃんや両親、姉は全員それなりに元気に存命中だ。

数日で死んだ金魚に情はうつらなかったし、昔飼っていた数匹のウサギはたまーに話しかけるくらいで、特に名前をつけたり呼んだりした記憶もない。

だから、幼少期から名前を付けて、呼んで、毎日話しかけて抱きしめて散歩に行って、時には怒って、作文が宿題になれば必ず彼について書き、図工の時間は絵でも粘土でも必ず登場させていた、私がずっと思い入れを持っていた大切なものが消えたことは、自分にとって人生で初めての衝撃だったのである。

 

だから、昔から「死」について、自分には他人事だと思っていた。死ぬ可能性が皆にあることは知っている。

でも、私と私の周りだけは別だ。多分、この先自分が消えてなくなるまで、誰も死なない。

そうかたくなに感じている自分がいた。

だけれど、だんだんと嫌な兆候は少しずつ少しずつ表れていった。

テレビで芸能人が死んだニュースが流れても、コレ誰?から、この人亡くなったのか!と衝撃を受けたり、元気いっぱいだった近所の犬がだんだんよぼよぼになっていたり、愛犬の尻にできものが増えたり、家の中でウンチを漏らしだしたり。

 

そのたび、色々と彼が死ぬことを想像しては泣き暮らしていた。

彼の目の前で涙ぐんでしまったりもしたし、電車内で涙をぬぐったこともある。

だから、シミュレーションは完璧だと思った。

けれど、ついに彼の死に目に会うことはできなかったし、現実を受け止めることもできなかった。

 

そんな失意の中、彼が亡くなってしばらくして、アドベンチャーワールドへ行くことがあった。

アドベンチャーワールドとは、和歌山県にある、色々な動物と触れ合えるスポットだ。

パンダからペンギンからキリンまで、沢山の種類の動物がいる。

動物は元来大好きであるから、彼への心の傷を持ったまま、それでもわくわくしながら向かった。

そこで、犬と触れ合えるスペース、というものがあった。

犬の触れ合いコーナーがあるなら興奮する。なぜなら犬はすべからく可愛いからだ。だから率先して行くのだ。

そんな方程式が自分にあったからかもしれない。私は犬という単語に少し心を傷つけながら、それでも犬に立ち向かおうと、触れ合いコーナーへ向かった。

 

触れ合いコーナーの犬たちは、確かに犬だった。けれども、いつも感じるこみ上げる可愛さがない。

確かに、みんな犬として、綺麗な血統書付きのような犬である。うちの犬のような、何と何のミックスか分からない犬とは違う。

けれども、彼らはまるで生きていないみたいだった。

 

生きていない、といえば語弊があるかもしれない。立ち上がり駆け抜ける彼らに生命力を感じないといえばうそになる。

けれども、どうやったって、彼らの感情をくみ取ることは出来なかった。

理解できないことがこんなに怖いとは知らなかった。犬が嫌いな人が笑顔の可愛い犬に「襲われそう!」と言って無駄に恐れる気持ちが分かった。

同時に、悲しくもなった。きっと一匹一匹、それぞれ性格や個性があって、自己表現がしたいに決まってる。それがくみ取れない人間がいることが、彼らの人生に切なさを加えている、と思った。

 

それと同時に、わたしが愛犬の気持ちが手に取るようにわかって、表情がとてつもなく豊かに見えたこの彼との十数年は、びっくりするほど幸せだったのだ、と気づいた。

そして、私の人生の節目で体に10円ハゲをつくるほどいろいろ心配してくれていた愛犬も、私の気持ちを汲んでくれていたに違いない。

いつも抱き着いたりちょっかいばかりかけて、散歩もたまにしかいかないし、彼に特別好かれていた自信はないけれど、それでも、ほんの一瞬でも、彼の人生に私という存在が紛れもなく登場していたのだ、と思ったとき、生まれてはじめて私は自分の人生を、生き方を肯定できた。とてつもなく大きな力に救われた気がした。大袈裟だと思うかもしれないが、私にとって彼は、それほどまでに大きな存在なのだ。

 

失ってわかるものがある、とはよく言ったものだが、実にその通りだった。

悲しい時間の中で、少しずつ時間が私を癒していくうち、私が彼を心から愛していたことがわかってきた。

いや、愛している、といった方が正確かもしれない。

こと彼への愛情については、世界の誰も、きっと神様でさえ、私を偽善者と呼ぶことは出来ない。

私は形に見えないものが苦手だ。信じていないわけではないが、すぐに一片の曇りを探してしまう。

けれど、私の彼への嘘偽りない愛情、これだけは確実に存在すると胸をはって言える。

本当に、大好きなのだ。

もう二度と、この私の気持ちを伝える機会がないかもしれない、という事実が胸に刺さる。

本当は、私のこの大好きだという気持ちを彼に伝えてほしいけれど…けれど、そんなことどうでもいいや。

神様仏さま、もし天国があるとすれば、そこではきっと彼の体の傷を治してあげてください、元気に飛び回って走り回れる体に戻してあげてください。

グルメすぎてドッグフードは食べません。少しくらい太っていいので焼肉パーティーしてあげてください。

可愛い気の合う犬と、素敵なセカンドライフが過ごせますように。

もしも生まれ変わったら、誰かに愛されながら、散歩も行き放題の、素敵な家庭にもらわれて、悔いのない一生が過ごせますように。

どうかお願いします。もし生まれ変わっても、私は彼のことが大好きです。どうか、幸せな未来を、彼に用意してください。よろしくお願いします。