だから私は魔法の絨毯に乗りたいだけ

きまぐれメモリアル/日常エッセイ/それでも私は元気です

22歳の思春期

思えばわたしの人生は、恋というものの気づきが遅かった方であると思う。

良くも悪くも子供っぽく、また恋愛に対して少し潔癖症で、どこか許されないというか、ふしだらというか、高校生までそんなことを考えてきた記憶がある。

よく考えれば姉とも両親とも恋愛沙汰の話はしなかったし、恋愛結婚した姉がいる今もそのような話をするのは少し照れくさい

 

また全くモテるタイプではないわたしになし崩しに彼氏がはじめてできたのも大学2回生に入ってであったが、その時付き合いに発展したのも特段この人がいないと生きていけない、など歌う世間の気持ちも分からぬまま、人生は何事も経験だと思ったからであった(よくよく考えると非道であって、自意識過剰のようだが相手にも申し訳ない気持ちでいっぱいである)。

その彼氏とも2年付き合ったものの、たまのシチュエーションに自分が少女漫画の中にいるみたいだなあと思ってときめくことはあったけれど、それはいま考えると相手に対してではない。

相手に対しては結局友に感じるよりちょっと強めの情がわいたまでで、毎日特別ワクワクするだとかは特になかった。

なんだか綺麗に可愛くなったね、やっぱり彼氏ができて恋をしてるからかなあと友人から言われたこともあったが、側から見たら恋をしているように見えるのかという違和感と、友人へのかすかな失望を感じたまでだった。

 

そんなわたしが、あろうことか世間に言われる恋に、今更、落ちてしまったのである。

 

相手は友達の友達のN君である。

Nくんの良さを端的にいうと、とっても優しいことだ。誰に対しても、自分のできることを100パーセントしてあげたいと思い、実際行動に移せる人間である。

人に優しくありたいと思っているが、なかなかできない心の狭い臆病なわたしにとって憧れとも言える人。

またとってもポジティブで、明るくって、人の悪口も言わない。なんだか少女漫画から直接出てきたような人である。

 

わたしはNくんのことを考えると、なんだか心臓のあたりのなんだかやりきれない痛さを感じる。

自分の失態を夜中に思い出した胸の疼きとも似ている気がする。

隙があれば彼のことを思い出すし、なんだか歌い出したくなるような衝動にもかられる。

なんだか気持ち悪いけれど、止められないのだ。

ああ、恋ってこういうことなのか と、思春期真っ只中のようなことをつい口に出してしまう。ああ、わたし今年で23歳なのに。

 

もちろん、人は完璧ではない。前の彼氏はまあそれなりに賢くはあるのだが、頭の回転が少し悪いというか、要領が良くなく、なんだか割の悪いことばかりやらされる役回りであって、それは確実に自分の利益を確保できないという自分に帰責性のあることであるのにそれをだらだらと愚痴ることが嫌いであった(わたしはそれを頭が悪い男は嫌だなあと考えていたし、大人な男性が好みだなと何度も感じた)。

しかしNくんは要領は素晴らしくいいものの、要領以外はあまりない。

地頭はよいのかもしれないが、語彙力が本当に無く、わたしのこのような拙い言葉でさえ理解できない。

ためらうとか、憚られるとか、そういった言葉すら通じた試しがない。

なんだか本当にアホの子に見える。停電が起きたら喜ぶし、柚子湯の柚子は食べちゃうし、なんだか小学生みたいである。

わたしの理想である賢く、大人な男性とは程遠い。

だけど何故かわたしは大好きなのだ。また、わたしの好きな俳優さんは鈴木亮平すなわちムキムキで男らしいちょっとタレ目な男性が好きなのだがNくんはもはやわたし以上にガリガリなのではと思うほどである

足は折れそうだし、筋肉もひとかけらもないように見える。

しかも目はツリ目で、まあ美形だと胸を張っては言えないような、人並みのごく普通の顔である。

背も平均身長よりも低いし、足のサイズもわたしよりも小さい。

けれど、それでもわたしはNんが大好きなのだ。

こんなに納得できないことがたくさんあるのに、それでも何故かわたしは彼が好きなのである。

これは自分自身未だに不思議に思っている。

 

どうしてこの気持ちが止められないのか?

 

家族法を専攻し、不貞行為の罪の重さをよくよく知っている。

ずっとリスクと信頼の失墜、また相手の心の傷と引き換えに不貞行為をはたらく者の気持ちがよくわからなかったが、今なら不倫する人が世界にいるのは仕方ないなあとも思う。

育ってきた環境が、甘くて我慢ができない、また相手の気持ちを慮る先見がひとかけらでもできなければ、だれでも不貞行為をはたらく可能性はあるだろうなあとすら思う。

 

他の友人たちは、こんな思いを中学生ぐらいからやってきたのだろう。本当にしんじられないというか、長い間よく頑張ったなあと感じる。

 

胸の痛みにつながる思考回路はよくわからないし、なんだか自分自身の気持ちも分析しかねるが、ただ恋は理屈じゃないと歌った先人の気持ちが分かるようになった

なんだか不思議だけど、その通りなのだということがよくわかった。

 

このような気持ちを理解させてくれたNくんには、感謝してもしきれない。

毎日私からのハートマークばかりのラインを眺める彼も、きっと心労に思っていることだろう。

けれどもそれでも優しく毎日私の口角が緩むような返事をくれる彼には、本当にありがたい気持ちでいっぱいだ。

これからも、あともう少しだけでもいいから、わたしの気持ちに付き合ってほしいなあと考えている。

 

最後に、わたしの大学時代を彩ってくれた彼氏に対して、様々失礼なことを言ったが、何も経験値を持たないわたしに貴重な体験と経験をさせてくれた彼氏に対して、非常に感謝している。

彼のおかげで友達とできる会話の幅も広がったし、時に叱ってくれることで自分自身の課題も見えたこと、また優しくされる嬉しさなど、その他様々わたしに与えてくれた。

ただひたすら感謝である。彼に幸あれ。

ヨイトマケ考

 

ヨイトマケの唄

ヨイトマケの唄

 

 

――――父ちゃんのためならエンヤコラ、母ちゃんのためならエンヤコラ、子供のためならエンヤコラ―――――

 

生粋のおばあちゃんっ子であった私は、おばあちゃんとずっと一緒だった。

だからおばあちゃんの大好きなSMAPのキムタクにも、徳永英明にも親しみを持っていたし、おばあちゃんの嫌いな猫は私も苦手で、またおばあちゃんが蛇と蜘蛛を仏様の生まれ変わりだというと私も精一杯大切にした。

おばあちゃんは表情豊かな人だ。怒るときは怒るし、かといって笑う時はとことん涙がでるほど笑うような、そんな人である。

おかげで私も感情表現がストレートに育った。だか気に入らないことがあるとすぐに泣いてしまう、いわゆる「泣き虫」だった私に、おばあちゃんは「そんなにすぐ泣くな、涙の安売りはするもんじゃない」とよく怒られたものだった。

確かに、おばあちゃんが悔しくて泣いている姿は見たことがない。

ただ、そんなおばあちゃんが唯一涙を流すもの。それは、三輪明宏さんの歌う「ヨイトマケの唄」を聞いているときだった。

 

おばあちゃんがまだ小さいころおばあちゃんのお父さんが戦死してしまい、お母さんと祖父母により育てられたおばあちゃん。確かに、お母さんが家計の大黒柱として働いていたということは想像に難くない。

母が身を削って、家族のために働いている姿を歌い上げたヨイトマケの唄は、どこか祖母の記憶とかぶるところがあるのだろう。

勇敢な父、大胆だった祖父、自分を大切にしてくれた祖母、そして強かった母。ヨイトマケの唄を聞きながら家族のことを語るおばあちゃんは懐かしそうで切なげで、そして自慢げでもあった。

私はそれをどこか物語のように聞いていた。

肉親との別れも未だ体験したこともなく、働いたこともない私は、父の戦死と対面したおばあちゃんの心情や、家族を支えた母に対する尊敬の念をしっかりと汲むことができなかったのだ。

いつか大人になったら分かるのかもしれないけれど、おばあちゃんに共感したい気持ちと、分かるのが怖い気持ちがまじりあった不思議な感覚であった。

ただ、なんとなく、きっとこれから私にも誰かとの別れが訪れるだろう。また、だれかを支えるために労働しなければならないときが来るのであろう。そのような漠然としたイメージと一欠けらの覚悟を自分の中に感じてはいた。

 

 

そんな子供も遂に大学生になり、アルバイトを始めた。

個人営業のこじんまりした居酒屋で、あまりハードではないけれどおじさんの下品な話をニコニコしながら聞き続ける日々に、確かに働くことは大変だなあとボンヤリと感じていた。

そして最近、社会人になるまでにいろいろな経験をしてみたいとの思いから、派遣に登録し、飲食以外のバイトに挑戦することにした。

そして、ひとまず工場バイトにたどり着いた。

 

もともと折り紙などの単純な作業は、割と没頭できるタイプであったから、きっと工場も向いているだろうと思っていた。

単純な作業を9時間行い続けること、それに飽きてはしまわないかと不安にはなったけれど、飽きたらまあ誰かとおしゃべりして楽しく過ごそうと思って、むしろワクワクしながら職場へ向かった。

いざ着いてみてもきれいな施設であるし同じ年頃の女の子もたくさんいるし、楽しそうだなあ、何を話そうかと考えながら、工場のバイトが始まった。

 

ところが仕事となると、全員が猛スピードであった。商品を猛スピードで束ねる人、段ボールに詰める人、そして重いダンボールを自分の背の高さほどまで積む人。

仕事が早いと居酒屋で持て囃されていた私は仕事の速さに自信があったが私なんかが太刀打ちできるレベルではないと感じて絶望した。

これから何回商品に触れば9時間が終わる?段ボールを何箱見れば家に帰れる?いろいろな回数を脳内で計算していくと、人生で初めて「永遠」を感じていた。

 

結局、私は流れてくる商品を一定数束ねてゆく仕事に割り当てられた。

単純作業、といえばその通りだ。さっきから手は同じような動きしかしていない。

だが、自分のキャパシティを増やし、効率化するためにどのような動きをすれば最短距離で束ねられるのか、どの指をどう動かせば自分の掌の痛みが和らぐのか、そんなことを常に考えている。つまり、体を使うことはもちろん、

頭もフル回転なのだ。このベルトコンベアはあのプリンの色と一緒だなあとか手で無理やり止めたらどんな動きをするのかなあとか考えることはおろか、次々流れてくる商品に書いてある文字を読むだけでも手元が狂ってしまう。

つまり、尋常ではない集中力が試されるのだ。

自分がつまれば全員の円滑な仕事を阻害することになる。だからその限られた時間の中で素早くかつ丁寧に、ミスなく正確に作業を行わなくてはならないプレッシャーと闘いつつ、何も考えないように、かついろいろ考えながら真剣に取り組んだ9時間。

今までの、一日1組しか来ないような居酒屋でのアルバイトがいかにぬるま湯であったかを痛感した。1時間900円を得ることに対する自分の責任を実感した。悲鳴をあげる自分の足腰と掌、にじんでくる汗を感じながら働くってこんなにも大変なのかと衝撃を受けた。

 

ああ、思えば、私が来春から働く会社で製造をしてくれる人たちの仕事もこんな感じなのではないか。

メーカーである以上、私がクーラーのきいたオフィスで電卓を弄繰り回している間だって、商品を精一杯作ったり、梱包したりしてくれる人は必ずいるはずだ。理屈では理解していたつもりだったが、私は商品は機械が勝手に作って勝手に梱包して勝手に営業の手に届けてくれると考えていたのではあるまいか。

私の会社だけじゃない。私が着てる服だって、携帯だって、住んでいる家だって、食べているものだって、見えないけれど、「作った」人がいるはずだ。

今まで、そんな人たちのことを理屈では理解していても、一瞬だって本当に考えたことはなかったのではあるまいか。

 

「当然の暮らし」って、こうやって人が体を痛めながら心を砕きながら作ってたんだなあ。社会って凄い。偉大。社会の歯車なんてよく言ったもので、確かに一人が欠けても世界は回るけれど、その一人は確実に社会に貢献しているわけで。「御社を通じ社会に貢献したい」なんて就活で言いまくったものだけれど、こんな前日の思い付きで来たアルバイトだって確実に社会に貢献しているのだから、言うだけ無意味だったかなあ。

 

――――父ちゃんのためならエンヤコラ、母ちゃんのためならエンヤコラ、子供のためならエンヤコラ―――――

 

誰よりもテキパキと、小さな体でせっせとダンボールに商品を詰めている、正面にいたおばちゃんを見つめていると、急に幼少期おばあちゃんと聞いたヨイトマケの唄を思い出した。

きっと、社会人全員がヨイトマケなのだろう。世界中の「母ちゃん(男性含む)」、いつもいつもありがとう。

 

 

そんなことを考えている今だからこそ、サラリーマンに足を踏まれたことも、舌打ちされたことも、全て許せる気がする。だから、そのあと仕返しにかるーく鞄ぶつけたこと、どうか許してください。ごめんなさい。てへぺろ

 

<イラスト図解>工場のしくみ

<イラスト図解>工場のしくみ

 

 

大人って完璧じゃないんだなあと気づく話

物心ついた時からずっと、大人の世界は完璧だと思っていた。

 

私には感情があって、時に爆発してしまうこともあるけれど、大人は成長しきった後だから、そんな感情の起伏を見せるスキもなくって。

ただ苛立ちも不満も制御されたストレスフリーな完璧な世界で、愚痴を零すこともなく誰かの悪口を言うこともなく、もちろん失敗なんてすることなく、ただ平和的な完璧な環境で生きていると思っていた。

理由は簡単。私の母親に欠点が見当たらなかったからだ。

私が苦手なことを何でもできる。

掃除もごはんづくりもできるし、字だって綺麗。どんな探し物も一瞬で見つかるし、何か困ったことがあっても、相談さえすればなんだって解決してくれた。

車も運転できるし、常識や知識だってある。まさしく完璧。

だから、大人はみんながみんなそうなのだと信じて生きてきた。友達のお母さんだって、みんな完璧だ。

 

まあよくよく考えると、それじゃあどうして事件が毎日起きるのかなあとか、たくさんの矛盾も孕んでいるのだけれど、私はそこまで思い至らず、私の住む日本の大人たちはひとつの瑕疵もない完璧な社会に住んでいる完璧な人たちだと信じていた。

勿論、子供である今の私は到底完璧な人間たり得ない。

だから失敗だってするし、些細なことで拗ねるしごねる。時には号泣しながら心を乱していることをアピールだってする。

ただ、その原因だってすべては私が所謂「子供」だから。そう思いながら、20歳近くまで生きてきた。

大学に入学し、わたしが大都会へと羽ばたくとき、自分が大学を卒業するころには、自分の思い描く「大人」に、つまりは「完璧な人間」に自動的になっているのだ、と考えるとどこかさびしく感じた。

 

そしていざ一人暮らしをすると、思いのほかダメダメな自分がいた。

インターネットの支払いは遅れに遅れ、部屋は掃除をしないから乱雑。

毎日昼にムクリと起き上っては手のひらぶん程のフルーツグラノーラを掻き込んで友人と遊びまわる。

心底いやなことに直面したら、一人部屋で少し泣いてから大好きな犬の画像を見て気を紛らわす。

うれしいことがあったら、一人の家でだって舞い上がって踊りだしてしまう。

到底「完璧」とはほど遠い自分がそこにいた。

けれども大丈夫。だって、私はまだ子供。成人したとはいえ、まだ「大人」じゃないんだもの。これから自然と、できないことができるようになっていくでしょう。

 

そう思っていた私であったが、大学一年生の夏、自分の価値観を変える衝撃と対面した。

忘れもしないそれは、一冊の参考書。

誰かの自費出版でもありえない、ちゃんと本屋さんで買った、キャッチーな表紙のついたカラフルな参考書。

有名な予備校が出した、いわゆる私の中で完璧だと信じていた「大人」が何人も携わったであろう本である。

 

その本の中に、「つまり~~~のだである。」との一文を見つけてしまったのだ。

 

これはどう見ても「誤植」である。きっと「だ」が不要であったのだ。

大人の世界の出した本なのに、どうして…。非常に大きな衝撃を受けたと同時に、自分が完璧であると感じていた大人の世界が崩壊した音を感じた。

何度考えても、意味が分からなかった。大人って、完璧なんじゃないの?私が一時間で適当に書いたレポートを提出するのとはわけが違う。というか、私でさえそんな誤字をしたことはない。

 

そのとき、あまりの衝撃に、何個かの仮説が頭に駆け巡った。

大人にも、劣等生がいる?

この会社の人たちが、たまたま目も当てられないようなポンコツだったの?

それとも…

 

あれ、もしかして完璧な大人って自動的になるもんじゃないんじゃ...?

 

そのことに気付いた瞬間、驚きと同時になんだか酷く落胆した自分がいた。

まだ何もできない私だけれど、自然と完璧な人間に育つわけがないのだ。

わたしがこのまま変わろうとしないと、一生この不完全なままで生きていかなければならないのだ…

ゴールである完璧はひどく遠いものに思えたし、改めて世の大人たちを尊敬した。

しっかり知識を増やさなければとも思ったし、しっかり生きていかなければとも思った。

バイタリティーはもちろんだし、自分の感情もある程度コントロールできるようにならなければ。

字だって一生綺麗にならない。人前でも恥ずかしくないくらい達筆になりたい…。

 

でも、どうやって?自然になるのではないとしたら、私が何か努力しなければならない…。

 

途方もない計画に、絶望と限界を感じていたけれど…

大人は完璧、というフィルターが外れると、なんだかいろいろなものが見えるようになった。

あのバイトのおばちゃんはなんだか怒りっぽくて感情的。

店長は字が絶望的に汚いし、悲しいくらい短絡的。そして愚痴っぽい。

テレビでは毎日人の悪口をいうコメンテーターがいるし、汚部屋特集もあるし、浮気しまくるお姉さんもたくさん出てる。

 

個性、といってしまえば聞こえはいいけれど…

あ、大人って完璧じゃないんだ。

 

よくよく考えたら当たり前だけれど、20年近く生きてきてはじめて気づいた話。

大人になること、怖くはなくなったけれど…

卒業間近にして、それでもやっぱり完璧を目指したくて試行錯誤しまくっている今日この頃です。

ブロガー考 存在価値ってなんなんだ

 

はてなブログ Perfect GuideBook

はてなブログ Perfect GuideBook

 

 

何も胸を張れるようなものでもないが、私はブログを書いている。

 

人生にはたくさんの暇つぶしがあって、その膨大な中からあえてブログを選び取った理由は、昔から文章を書くことがさほど苦ではないから。ただそれだけだ。

 

作文や読書感想文などを友人たちがいやだいやだと苦労して書く中、私が嬉々としてものの数時間で書き上げていた理由は、物心つく前から、紙とペンを渡したら文字を書いていたことであろう。

 

文章にはその人の思考回路やポリシー、性格が反映されると思っていて、読むことで大昔の自分の精神状況や性格がわかるのではないか、と思い親に内容を尋ねたものの、字が汚すぎていまいち読み取れず、どのようなことを書いていたのかは謎だとの返事が返ってきた。本当に残念なことだが、何かこじらせていたらいやだなあとも思っていたので、少しホッとしたことを申し添えておく。

 

またもう一つ残念なことに、そのような子供だったからか、絵はからっきし上達しなかった。

 

読書感想文の賞はいくつか頂いた記憶があるが、絵に関しては、一切賞をとった記憶も、これといって褒められた記憶すらない。

 

美術館にいってロマネスクな絵を見るたびに、その美しさや人間のポテンシャルに感動するとともに、人間のステータス割振りの不平等さを実感する。割り振りに何か神様のような存在が本当に介入しているのであれば、今すぐ交渉のテーブルについていただくことを要求する。なんならデモだってしてもいい。

 

また、とりあえず頭に浮かぶ取り留めのないことをただひたすら書いていたからであろう、文字を書くスピードは速かったが、同時に字の汚さも他の追随を許さないものであった。

 

基本的に習いたての小学生のような文字を書いていたが、中学の頃、友達と手紙交換をする際に自分の字の汚さに辟易し、雑誌や友人の字を見ながらギャル文字を習得した。そのおかげで現在、とても達筆とは言えない崩した文字ではあるが、人前でもさほど恥ずかしくない、少しかわいい字が書けるようになった。

 

基本的に個人主義というか、自分は自分、他人は他人という姿勢を貫いている私が、かわいいギャル文字をかける女子こそ正義といった風潮にのまれ、今でこそ感謝感激である。おかげで字に関して劣等感をあまり感じることも、無駄な恥をかくこともなく済んでいる。社会で協調性を持つことがいかに大切かわかる経験であった。他人に流されない、世間に流されない生き方を崇拝し、ロックだなどと言って見当はずれな社会への反発をする人もいるが、個人の集まりである社会で正しいとされていることは大概個人にとっても有益になるものなのだ。ひきこもってみるなど、社会への反発をすることに何ら反対はしないが、少し柔軟な思考と大きな視野を持ってみても悪くないのではないか?とだけ提言しておく。

 

 

このように、昔から文章を書いていた私であるが、それならば日記帳にでも書いてろ、目が汚れると思われる方も多いであろう稚拙な文章を書いている。

確かに、文章を書くだけでは飽き足らず、世界に発信しているわけであるから、何か受け手に利益を与えるのが当然であろう。芸能人の2,3行のしょぅもない独り言がもてはやされるのは、発信者自体に価値があるからだ。それなのに私はどうか?外を歩けば掃いて捨てるほどいるような大学生である。到底価値があるともいえない。書く文章も稚拙な割に長く、珍しい経験のリポートをしているわけでもない。

でもだからと言って、ツバを吐きかけるのは一度やめてほしい。私にだって言い分はある。

 

言い分というのは、まあそうだなあ、うーん、こんなこと言うのもなんだけれども、せっかく書いたんだし誰かが見てくれるような環境を作りたいってことである。

 

もしかしたら、私の顔が超美少女であることを見抜く人がいるかもしれない。その人にとっては、私のブログは天国のようなページであろう。毎日ニコニコしながら私のアホのような文章に食い入るように見て、舌鼓をうっている様子が目に浮かぶ。

ほんでもしかしたら私が死後夏目漱石の再来としてもてはやされる未来を予知している方もいるかもしれない。「生前のブログなあー超おもしろかったんだよ!あのころはたぶん俺しか見てなかったなあ」と息子に思い出話をしている様子が目に浮かぶ。

 

 

・・・とまあ長々と書いたが、まあ、結局はね、ブログなんて自己顕示欲の塊なんです。

 

きれいなあの子が毎日SNSにアップしている自撮りみたいな。または、だれが着るねんみたいなド派手な洋服を着て街を闊歩するタレントみたいな。

 

個性の発現といえば聞こえはいいけれど、みんな独りよがりです。承認欲求。満たされないなら、満たされる環境を作るっきゃない!ってことです。

 

「いやなら見るな!」って本当に名言。ほんとその通り。・・・いや、そのうち面白くなるので、いやでも見てほしいなあ・・・

 

 

最後に、私が昔書いた、昔からの自己顕示欲の発現方法・俳句を一つ紹介します。性が恥ずかしいと思っていた小学生時代に、からかわれながら、恥らいながら書いた作品です。

 

お祭りの 花火が空に 恋してる

            椎名まるか

 

かっこよくて誠実で、とびきり優しい素敵な男性を知っている方、ご一報ください。それでは。

 

by Marca Shiina

 

 

 

承認欲求―「認められたい」をどう活かすか?

承認欲求―「認められたい」をどう活かすか?

 

 

 

自分のことをしゃべりすぎる若者たち (講談社+α新書)

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貧乳考 夏を思いっきり楽しみたいの!

 

 

 

パーフェクト・サマー・ヒッツ (夏!海!ドライブ!BBQ!パーティー!完全版BEST HITS COVER)

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夏!

 

外気は熱く、体中汗だらけ。

 

最寄駅から自宅まで歩く間はもう一生外になんか出るものか、と悪態をついてしまうが、すこし涼んで窓を見ると、青い空が顔をのぞかせている。

 

すっきり爽快で、またついつい外に出てしまう。なんだか不思議と憎めない季節である。

 

そのような環境になると、人間としてすることは一つである。

 

そう、海やプールへいくこと。

 

すなわち、これは私のような貧乳には苦行そのものである。だってまず第一に、水着にならなくてはならないから。

 

水着って、下着みたいなあれでしょ?どうしたって、体の露出は激しくなる。地獄の業火にやかれるか人前で胸を出すか、どちらかを選べと言われても、何時間も悩み続け、地獄の執行人に苦い顔をされている自分が思い浮かぶ。

 

 

胸がなくたっていいじゃないか、と思う人もいるだろう。

 

胸があると、どこか太って見えてしまう、胸がないのは細いからだ、私はあなたがうらやましい、と苦し紛れに言われたこともある。

 

しかし、私には胸の貧しさを正当化できるほど華奢な体ではない。

 

毎日2カップ食べるハーゲンダッツのおかげか猫背のおかげか、それなりにたくましい体つきなのである。

 

天は2物を与えずともいうが、わたしの一物ってなんだろう。

 

つむじは大きく、ハゲているとさえ言われるし、自分への不満を挙げればきりがない。

 

ああ、一物ぐらいは頂きたい。例えば、聡明な頭か、世界中を虜にする美貌ぐらい私にあったってばちは当たらないはずだ。今からでも遅くはない、神様、交渉のテーブルについていただきたく存じます。

 

明日のプール用にヌーブラで胸を盛ってみる。でも何回見たところでズボラでアホな天パの163センチの貧乳のいかり肩。ああ、世界中の方何かの才能や美貌をからたった一握りずつ分けていただいたら、平和で平等な世界は実現するのになあ。

 

皆さん、私を巨乳にしてくれるのなら、

 

世界の偉い人一人一人に、平和の素晴らしさを説いて回ってあげよう。相手がなきながらもう絶対戦争はしないというまで。

 

大学の教授に掛け合って、明日の授業を休みにしてあげてもいい。

 

賽銭箱にいつもの何倍ものお金を入れるし、一日10回はいいことをする。あなたが道に迷っていたら、一目散に助けてあげる。

 

だからどうか、私を巨乳にするために、どうか皆さん尽力してくださいませんか。

 

私のこの訴えもじきにインターネットの海の藻屑となって消える。

 

誰が読むわけでもなく、だれ尽力してくれるでもなく、ただ初めからなかったのと同じように、ゆらゆら漂って消えてしまうだろう。

 

いいのだ。だって、私に価値なんてない。巨乳になって一体誰が喜ぶというのか?

 

悪役フェイスで、アラジンのジャファーに似ている女の巨乳の姿を誰が見たいのか?

 

そうよ、わかってる、わかってるの・・・・・・

 

 

 

私は全然諦めがよくない。

 

底抜けのポジティブさだけを持って、今日もバストアップに勤しむ。

 

さて、今日も体中の肉をブラジャーに詰めて、二の腕から胸に肉を送って、申し訳程度の鶏肉を食べて、明日のプールに備えよう。

 

できたら明日までに、私を名実ともにDカップぐらいにしていただけないでしょうか。

 

それが難しいようであれば、世界中の女の胸をAAAカップぐらいにしてください。わたしが一番の巨乳になればそれでいいですから。

 

おやすみ世界。

 

 

 

 

 

DVDでマスターする 即効バストUP 美乳骨気

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 by Marca Shiina

ひとの心

 

ポケット六法 平成28年版

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私は、法学部生だ。

 

憲法ももちろん学んでいる。

 

大きな六法全書を毎日持って勉強しているのだ。

 

突然だが、憲法19条をご存じだろうか。

 

「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」

         ーーーーーーーー日本国憲法19条

 

これは、多くは信教の自由などに解釈されることも多いが、私は「自分が何を考えてもよい自由」であると解釈している。

 

例えば、無銭飲食をしようかと考える自由。これは、非常に公序良俗に反しているようにも思える。しかし行動に移す前であれば、決して罰せられることはない。

 

また、大きな駅で通り魔をする計画を脳内で組んでも、たったそれだけで罰せられることはない。

 

邪魔でイライラするタクシーやバスを脳内で一台一台爆破しても、実際爆破するまでは罰せられることはない。

 

(ただし、その気がなくても犯罪予告をした場合には駅やバス、タクシーを管理・運営している人々は犯罪予告に対する対策をとらなければならないため、通常業務を妨害しているとして業務営業妨害で罰せられる、また損害賠償を請求される可能性はある。)

 

なんにせよ、心で思うだけならば罰せられることはないのである。

 

民主主義のため、やみんなの自由な生活のため、などと表現されることも多いが、私は実際「思想を読み取る技術がない」からではないかと考える。

 

もしかしたらあるかもしれないが、いまのところそのような技術は一般市民であるわたしの身の回りにはない。

 

ドラえもんも「こころよめーる」みたいなひみつ道具は持っていないだろう。たぶん。

 

バウリンガルなんかはあるが、これも犬が声を出しているとき限定だ。

 

心拍数をよむ方法もあるが、例えば心拍数が高すぎて興奮状態の人の考えていることはわからない。

 

犯罪の計画をねっているかもしれないが、もしかして、目の前のお姉さんでよこしまな妄想をしているだけかもしれない。それかさっきまで見ていたサッカーの試合に興奮しているのかも。もしかしたら、鴨川を全力でダッシュしてきたのかも。

 

国家としてみればスパイやテロリストがわかればその前に捕まえたいはず。

 

目の前の人が今すぐにでも通り魔をしようとしていることがわかってるのに、目の前で逃げもせずに日常生活をおくりたい人がいるだろうか?

 

少し過激な主張かもしれないが、つまるところそういうことだ。

 

私が権力者になったら、人を思想ごとに分けてしまうだろう。

 

自分や家族、友人やその他の人々の命や自由脅かす危険因子をそのまま個性だと受け止められる人が世界に何人いるのだろうか?

 

だれも、自分が一番かわいくて、地球の裏側の人よりも自分や自分に近い人の命の方が尊い。

 

わたしの裏側の人も、私なんかよりも家族や友人の命を尊いと思っている。だから、命は平等なのだ。

 

じゃあ、人の読めない思想をどのように制限してきた

 

その答えは、宗教にあった。

 

日本人に多い仏教だが、犯罪などをおこなったことはもちろん、言葉として表現すること、また「心で考えること」も罪になる、との話を聞いた。

 

通り魔への欲求も、食い逃げ計画も。本当は許されないことをしたい、と考えるだけで罪なのだ。

 

確かに、仏様は無敵だ。大仏様が半目なのは人の心をも見透かさないようにであるらしい。仏様にかかれば、確かに私たち一人ひとりの心なんてすぐにわかってしまうに違いない。

 

のどが渇いてることも、目の前のお姉さんへのよこしまな妄想も欲望も。ラインを常に気にしていることも、本当はいま気まずいことも、脳で流れている音楽だって。

 

仏様は、像でこそあれ、本当の姿は目に見えない。だから、きっと人の心にも入ってこれるのだろうとのイメージを明確にしてしまう。

 

昔の人は、とっても上手だ。仏様や神様といった、私たちとは違う世界にいらっしゃる方。どこか見透かされているような、どこか監視されているような、人間なんかじゃ太刀打ちできないような存在で、人々の思想のコントロールの道具として利用されていたのかもしれない。

 

とはいえ、たまにはいろいろ考えないとやってられないこともある。

 

アルコールやたばこ、ギャンブルに逃げる前に、理性と良識を大事にし、仏様にばれない程度に、いろいろ考えてみようと思う。

 

うふ。

 

 

入門 近代仏教思想 (ちくま新書)

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日本のほとけさまに甘える―たよれる身近な17仏―

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なぞり書き 般若心経 写経用紙 20枚入り+筆ペンのセット

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浮気者

 

いぬのきもち・ねこのきもち いぬのきもち ウンチとり袋 100枚入

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これでスッキリ!! ストレス解消 ぐちの壷 SAN2112

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浮気した夫の頭の中

浮気した夫の頭の中

 

 

恋人が浮気未遂をしたらしい。その知らせを聞いたのは、ちょうど事件から1週間ほどたった時のことだった。

不思議なことに、悲しみの涙も、憎悪も無かった。

「まあ、そういうこともあるかもしれないけれど・・・」ただ、わたしからあふれたのは、スパイス程度の苛立ちと、少しくすぐったい笑いだけだった。

私が一途に王子様を追い求めるような、そんな純愛だけを抱きしめて生きてゆきたい人間ならば、絶望したのかもしれない。

そして、ひどく彼をなじって、あなたとはこれっきりだと三下り半を突き付けたかもしれない。

けれども、私はそんな人間ではない。

男なら浮気して当然、それを許す私は寛容で心が広くって、ほらねいい女でしょう、なんてことを言うつもりもない。

そんな波風をたてる度胸も、そしてまだ見ぬ純愛を信じて彼を捨てて、白馬で疾走する新たな王子様を裸足で追いかけるような体力もなかったという方が正しい。

彼氏欲しいが口癖の、ただ理想を追い求めるだけの少女ではなくなったのだ。

漫画に出てくるような理想を具現化した人に憧れ、どうしてもそんな人と結婚したいから世界のどこに居ようとも探し出してやると血眼になれる季節はもう過ぎたのだ。

こんな私だって沢山の感情を持って生きているのだもの。途方もなくて恐ろしくて、考えたくもないけれど、世界の何人もの人が沢山の感情や沸点を持って生きている。

だから、「優しくてかっこよくて誠実で私のことだけを考えてくれて何があっても私のことが好きな動物好き」なだけの人だなんて、こんな広い世界にいないに決まってる。

それぞれ隠し通したい秘密や心の動きをもって生きている。

そしてきっと、憎悪や嫉妬なんていう、いわゆる「負」の感情とやらも、どんなかっこいい人間でも、どんな優しい人間でも持っているものなのだろう。

だから、浮気をしようとした事実そのものはいいのだ。むしろ少しは度胸がついてきたのかと褒めてやりたい。

大切なのは、ここからである。

彼は、女の子を後ろからぎゅっと抱きしめた後、女の子が「もう、寝よ?」と甘い声で囁いた、たったそれだけの静止で、諦めてしまったというのだ。

可愛い子と知り合ったということは知っていた。彼の美的センスは少し世間とずれているかもしれないが、かわいい子と出会ったことを、嬉しそうに、また自慢げに友人たちに喋っていたことも。

そんな素敵な女の子が、少し見せた恥じらいを鵜呑みにして、諦めた事実に私は苛立った。

男女ともに大人だった。少しいい雰囲気の男女が部屋で二人きりになったらどうなるか、を考えると、子供でないならばすぐにわかることだと思う。

その女の子だって、期待していた面はあるかもしれない。今日は少し念入りに体のケアをして、お風呂上りに少しお化粧したかもしれない。

ベッドシーツを新調したかもしれないし、特別にお風呂上りにも香水を振ったかもしれない。

そんな中、ポーズとしてとった「恥じらいの姿」を鵜呑みにされ、寝られる屈辱とはいかほどのものだっただろうか。

私は少し彼女の心中を思って、切なくなった。そして大変申し訳ない、という思いが渦巻いていた。

なんだか、この気持ち、どこかで体験したことがあるような・・・。

ああ、そういえば、と、私は飼い犬のことをふと思い出した。

名前はタルといって、柴犬とシベリアンハスキーの雑種で、少し怖そうな顔をしている、体重20キロほどの大きめな犬だ。

タルは、外の世界が大好きだった。いつも繋がれている紐をかみちぎったり、一瞬の隙をついては脱走していった。

そしてタルの脱走を見つけた近所の人たちがつれてきてくれ、ごめんなさいありがとうございますと頭を下げて回る。

なんだかその時の気持ちに似ていることに気が付いた。

それはすなわち、犬が他人の敷地でした粗相を始末する飼い主の気分ともいえるかもしれない。

どこかで自分のせいではないと思いながらも、もちろん監督不足であったなあという自己の過失を認める気持ちもある、そんな気持ち。

人は慣れると、彼氏だっていつかは飼い犬になるのだ。

確かに私に白馬の王子様は似合わないなあ、と苦笑しながら、今日も彼の償いのために奢ってもらう焼肉屋さんを探して、舌鼓をうつ自分を想像しながらニヤリと笑った。

 

浮気した夫の頭の中

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