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Nostalgia

毎日のことを、毎日のぶんだけ。日常って、実はドラマティックで溢れてる。

「どうぶつの森」考 向上心のない人間

にっき

 

おいでよ どうぶつの森

おいでよ どうぶつの森

 

 

選択肢は沢山あったはずだ。生きて行くために、何にでもなれた。

スコップと果物片手に木を植え続け、異国の果物を栽培し売ることもできた。

毎日海辺に立ち寄り、珍しい貝殻を集め、売ることもできる。

花を刈って売ることも、またデザイナーとして生地を作ることもできた。

村人たちの便利屋として御用を聞き、謝礼として貰える家具を売ったり、おもむろに木を揺らして落ちる金をあつめながら生きてゆくことだってできる。

毎日雑草を抜き続け、村での生活も長いもので10年目になった。

ブランクが数年あるものの、堅実に、真面目に毎日を送ってきた。

絶え間なく村人にホスピタリティの限りを尽くしてきたし、村で一番人情深い自信もある。

日々稼ぎ、二階を拡張するまで法外なローンを支払った。

堅実に貯金もし、5ケタの利息がつくまでになった。

虫や魚は勿論、最も効率的に稼げる化石でさえも、館長の「村人のため」という口車に乗せられ積極的に寄付してきた。

どうか精神的・文化的に豊かであってほしいと願った村人たちは、一切博物館に立ち寄っている気配はない。

いつもアホ面をぶらさげ、人生は暇つぶしだとでも言わんばかりに呑気に日々を浪費している。

自身の労力も報われぬまま、夢だけを信じて生きてきた私は、くるみ村やどうぶつの森について、大体のことは熟知してきたつもりである。

毎朝休まず貝殻を集めても、その価値は二束三文。

大嫌いなゴキブリも素手で捕まえるし、ハエ一匹も逃さず捕った。

これも全て、生きるため。そう呪文のように呟く私に、村人たちは怪訝な視線を送っていたかもしれない。

「向上心のない人間はばかである」とは、いったい誰の言葉であっただろうか。若かった私は、向上心の無い人間などいない、とこの言葉を一瞥したものだ。

日々を浪費し、実際に果物をとることも虫取り網を振り回すこともなく、ただ悠々自適に過ごす村人たちは、いったいどこに向上心を隠していたのだろう。

そして、私よりまるまる太り、沢山の家具を所有する村人たちのパトロンはいったい何だったのだろうか。

そんな周囲に対しなりふり構わず必死だった。必要があれば、乞食でもした。

それだけ一生懸命に頑張っても、多大で法外なロには到底かなわない。

いつか、有り余るローンをそのままに、私も今すぐ道具を捨て、浜辺の足跡がすぐ消えてゆくさまを楽しんだり、気ままに林檎を拾い上げて食べたりする生活をしようと何度思っただろうか。

「向上心のない人間はばかだ」という言葉が、自分の足かせになっていたのかもしれない。

向上心の無い人間はばか以前に、世界に存在すらしないだろうと思っていた。そんなものに、自分がなり下がるのが恐ろしくてたまらなかった。

 

そんな私が漁師として生計を立ててゆくことにしたのは、今日のことである。

漁師といっても、尼のように体一つで潜ってゆくものではない。マグロ漁船に乗って何か月も帰らぬものでもない。

ただ悲しいほどの真っ赤な釣り具の付いた、貧相な釣り竿で、つついてくる魚をつり上げるだけだ。

何度も何度も同じ真っ赤の釣り具にかかる姿は非常に哀れである。

自然界に大抵そこまで赤く目立つものはない。あっても、天敵がほぼいないような、もしくは周りの環境に擬態できるようなものであろう。

さわやかな光が差し込む川や海をもってして、そのような赤い姿を自然界でとるものがあろうか。

姿かたち、すべてが不自然な釣り具。村にどのような経緯で来て、どのように過ごしている魚かは知らぬが、そろそろ人間の悪意に気付くべきである。

無垢なものほど損をするという社会の縮図を表しているようだ。

そんなスズキ、フナ、アユでマンネリした日々に、突如驚きをもたらすマンボウやチョゥチンアンコウ達。幼児体型の極みである小さな体でまるで金魚をすくうように自らの体より大きいであろうそれをやすやすとつり上げる姿は、称賛に値する。

「向上心の無い人間はばかだ」その言葉が何度も脳内で反芻される。

そういえば、昔いたはいからな女の子の趣味が釣りであった。

昔おうちに遊びに行ったとき、彼女の1/2ほどの大きなスズキがどっしりと水槽に入れられ飾ってあった。

そのほかにも、名前も知らないような大きな川魚から小さな熱帯魚まで、沢山の魚が小さな水槽に狭そうに泳いでいた。

「向上心の無い人間はばかだ」。その典型例ともいえる村人たちを、私は軽蔑してはいなかったか。

けれども、どうだろう。彼女たちは、ひとりひとり思うこともありながら、懸命に毎日を生きている。

カクレクマノミやザリガニを釣って褒められていた子が、毎日毎日反復し、毎日毎日チャレンジし、いつしかアユを、いつしかフナを、いつしかスズキを、いつしかマンボウをつり上げる。

それなのに、私はどうか。

毎日懸命そうに見えて、ザリガニ一匹釣ったことがない。毎日六法全書にかじりつく私は、懸命なポーズをとっているだけだ。

軽蔑していた村人たちよりはるかに向上心がない。

 

ゲームの世界は、所詮人生の暇つぶしかもしれない。

けれども、自分の足りないものを、確かに見つけたようである。

得もいわれぬ充足感。しっかりと噛みしめながら、つい長時間のめりこんでしまっていた証である腰と目の痛みを自覚し、そっとセーブするのであった。