だから私は魔法の絨毯に乗りたいだけ

きまぐれメモリアル/日常エッセイ/それでも私は元気です

休暇が人を社畜にする

去年は、合わない上司と仕事をすることにうんざりしていた。

二回りも上のおじさんに、彼の情緒が安定しない日に理不尽な喧嘩をふっかけられて、信じられないほど疲弊していた。

グレにグレたわたしは、お盆も過ぎた、なんでもない夏の平日に、10日間ほどの有給をとった。

外資系企業ならいざ知らず、私の勤め先は典型的なJTC、日本の伝統的な会社である。10日間の有給はやりすぎか…と私も少しおもったが、もう仕事なんて辞めてやるからどうでもいいか、という勢いだった。

周りも私にどちらかというと同情的で、10日の休みくらいで鬱憤が晴れるなら仕方ない…とみなしてくれたのか、有給申請は無事に通り、休みをもぎ取った。

さて、10日も何をしよう……と考えて、すぐに姉に連絡を取った。

安定思考の私とは対照的に、私の姉は、割と大胆な女である。彼女が現在定職についているかは知らないが、どんな状況でもおそらく、彼女なら10日間の旅行に付き合ってくれるという自信があった。

連絡をとってみたら、彼女はちょうど幼稚園児の息子とセブ島に留学に行こうか検討中ということだった。

せっかく10日間あるのにセブ島か、どうせならもっと遠くのヨーロッパまでも行けるが…と思わなくもなかったが、そういえば昔留学に少しの憧れを持っていた自分を思い出し、私も参加させてもらうことにした。きっとこれが人生で留学をする最後のチャンスになるかもしれない。

 

セブ島では、午前中2時間ほどマンツーマンで座学をして、午後は先生を従えて観光ができる、といった、ガッツリ勉強をするというよりも、現地のガイドと運転手がつけられるツアーと言ったような感じだった。

午前中の座学ですら、観光に変更ができる。

座学用に教科書が支給されたものの、最終的に教科書を触ったのは最初の2日間、累計4時間弱だけだった。

先生を連れての観光は、先生とのご飯代や、先生のチケット代、タクシー代など、観光でかかる実費についてはすべて負担しなければならない。

毎日、外食したりデリバリーしたりしてご飯を食べて(ちなみに食事はそんなに好みではなかった)、

毎日、どこかへ遊びに行ったり買い物をして、

毎日、可愛いものを探して、

毎日、楽しいアクティビティを探す。

セブ島の水族館で、ドクターフィッシュに足を食われながらふと時計を見る。11時だ。

日本にいたら今ごろあの定例の会議に参加していただろう。いま、あの会議で私の欠席はどう伝えられているのだろう。いや、そんなことはどうでもいい、今は私は社会人じゃなくて留学生だ。

アラサーの汚い足を一心不乱で食べ進めるドクターフィッシュをみていた。くすぐったくて不快だけど、このドクターフィッシュの餌になるために、私はいくらかお金を払ったのだ。ああ、もうすぐイルカショーがはじまる。イルカショーが始まるまでに、あの売店でみんなの分のソーダを買わなくちゃ。

 

ふと、日本での日常が頭を掠める。いま日本では、同僚たちが働いている。あの嫌な上司ですら、会社の歯車として日本経済で何かを生み出している。

一方私は、ほんの10日間だけど、セブ島で毎日毎日何かを消費するだけの人生だ。

自ら餌になっても、ドクターフィッシュからお金を取ることはできない。ドクターフィッシュも、そこに私の足があるからしぶしぶつついてくれているだけだ。魚の味覚センサーのことは知らないが、くたびれたアラサーの靴擦れまみれの足の皮よりも、ホームセンターで売っている魚の餌の方がよっぽど美味しいに違いない。彼らは私を接待してくれていて、私がそれにお金を払っているだけだ。

ほんの10日間だったが、何も生み出さず何かを消費するだけの日々に、少し違和感を感じてきた。

 

人は、何をしに生まれてきたのか、考えることは誰にでもあるはずだ。

生まれてきて30年近く経つが、人生で誰かに何かを与えてきたことよりも、与えてもらったことの方がよっぽど多い。色んな人にいろいろなものをもらって、学んで、今まで生活してこれた。

それは、色んな形である。ありきたりだが家族からの愛や、友人からの優しさ、恋人からの気遣い、同僚からの助け。たくさんのものをもらって、今までやっと生きて来れたと思う。

与えてきてもらったそのどれもが私を作る上では不可欠で、必要なものだったと心から思う。与えられたことの全てを少しずつ吸収して、いまの自分が形作られたとも思う。いわば私は、周りにいる色んな人の好きなところが、ほんの少しずつ混じっている、そんな風に思う。そして私は、今までたくさんの人がたくさんのものを与えてきてくれたことに大変感謝している。

そんな自分が、これからどう生きようと考えたとき、やはり何かを与える側に憧れてしまうのは自然なことだと思う。

セブ島の生活は、たくさんの人が親切にしてくれたし、その親切のためにたくさんお金を使った。セブ島は、本当に何かをもらうだけ、消費するだけの生活だったから、少し飽き飽きしてしまった。

では反対に、何かを与える、生み出す生活とは?と考えた時に、やはり一番わかりやすいのが労働なのかなと考える。需要があるから、労働は生まれる。自分が雇用されたり誰かからお金をもらっているという事実だけで、その業務に需要があることの証明になる。

 

働くことは嫌なことも多い。後悔することもたくさんある。だけど、働いて何かを稼ぐことは、確実に誰かの需要に応えていて、誰かに何かを与えているのだ、ということをかみしめて、充実感を持って働いていきたいとおもう。

と、仕事を辞めてやると休暇をとってセブ島にいったのに、逆に少しワーカーホリックな自分の性質に気づいて帰ってきてしまった。

足ることを知ることはとても難しい。違う環境に身を置いてこそ、いままでの生活が足りていたことを実感するのだ。

そして、未来の私、念願かなってもし駐在妻になれても、短期間で働いていないことに嫌気がさすかもしれないので、よく考えて決断するようにしてほしい。人生は色々だ。

閃光少女

私は、初めての経験をしていた。

そう、つまりは、彼氏と同棲を始めたのだ!しかも、結婚前提で。

プロポーズや顔合わせはとっくに済ませ、元々決めていた家族や友人との海外旅行の予定もサクサクこなし、そろそろ長袖の季節かな?と思ったころ、私は一人暮らしの家から抜け出すために母と荷物をまとめていた。

思えば一人暮らしも10年ほどになるだろうか。

手作りカレーを腐らせたり、揚げパスタを作ろうとして発火したり、足の踏み場もない床で、何かの部品を踏みしめて足に激痛が走ったり……

おおよそ人と暮らすことに向いていない自分が、まさか誰かと暮らす日が来るなんて!!

料理も掃除も洗濯も、文化的な生活は無理だが人がギリギリ生きられるくらいだけをしてきた人生。

生活能力はあまりないけれど、なぜか二人暮らしだったら家事ができる…そう思って、胸をときめかせて同棲するマンションへ足を踏み入れた。思えば、そこが地獄の一丁目……は言い過ぎだが、スラム街の一丁目ぐらいには精神が安定しない日々の始まりだった。

 

同棲後、1ヶ月で籍を入れる予定だった。

それが崩れ始めたのは同棲2週間目、在宅勤務中。

わたしは部署が変わりたてで右往左往していた上に、会社の研修に追われていた。

一人では何もこなせなくて自己肯定感が下がっている辛い時期に、人を指揮するリーダーとしての研修を受けさせる会社のセンスの無さに絶望しながら、研修の5分休憩に必死でメールを返したりトイレに行ったりする。お昼休みは当然研修中たまったメールを返す作業で、ご飯を食べる暇もなく、冷蔵庫のみかんを片手にキーボードをひたすらうつ。

そして研修が終了したら人に電話をしなければならないし、そうこうしていると脱毛サロンの予約時間がきてしまうし……

そうすると、みかんの皮と仕事の汚い殴り書きのメモ、そしてみかんの汁とびちるPCがそのまま放置された汚い机が残されたまま、私は着の身着のまま脱毛サロンへと向かった。まあ、彼が帰宅するまでに片付ければなんてことない…そんな軽い気持ちで足取りは軽かった。

脱毛終了後、お姉さんの前でさらけ出した全身をホットタオルでふいて帰宅の準備をしていたころ、彼から運命のラインが来たのだ。部屋が汚い、婚約破棄😢、と。

婚約破棄………わたしは、厳しい言葉に相当ドキドキしていた。これは、なんのドキドキだろう…わからない、焦りなのか混乱なのか、または悲しみなのか。

婚約破棄か…本当にそうなら、これからどういうステップをふむのだろうか?顔合わせもしてしまったし、とりあえず挨拶に行くのかな……と、

親の顔や義両親の顔、さらには婚約したとカミングアウトした友達の顔がぐるぐる脳内を回る。

だが私のハートはキラキラマインド、つまりスーパーポジティブウーマン。このメッセージも言葉こそ厳しいが、少し絵文字も使ってきている。彼の元々暮らしていた部屋も、まあ清潔ではあったが異様なほど整った部屋ではなかった。つまり、わたしの悪行にも多少不快になっているとはいえ、婚約破棄などというほどのことはないのでは?と、

そう思うとこんな些細な感情の機微で、冗談でも婚約破棄なんて強い言葉を使って私の感情も揺さぶろうとするなんて酷いことだ!生理も遅れているし、私にだって彼との暮らしは多かれ少なかれストレスになっている、お互いに歩み寄らないといけない時期になんていうことをしたのだ!と、わたしはドキドキを全て怒りの感情に変換していた。

同棲ははじめが肝心だという、許してはいけないこんなことを……

そう勇んで帰ったわたしを待っていたのは、静かに激怒している彼氏の姿であった。

いつもの表情とも声とも違う、一目見たら分かってしまった、彼は本気だ……そう思った。

とりあえず謝って机を片付けた。

だが、私は、自分の何が過失なのかよくわからなかった。

だって、いま机を片付けて綺麗になったら、当時部屋が汚かったことってなかったことと一緒じゃん!当時片付けても、今片付けても、机が汚かったが綺麗になったという結論は結局変わらない。それより、汚す都度片付けるより、たとえば1日の最後、汚れきった後に片付ける方が早いし手間がない、それこそが賢い掃除のやり方だ!!別にみかんの皮が机にあっても、腐って臭うとか、カビの胞子が飛ぶとかまでは無害なのだから、人体に有害な何かがでてきて片付ける方が早いし掃除する理由として理にかなっている。

私は真剣にそう思っていた(名誉のために言うと、今はとうに改心済みである。今思うと恐ろしい理屈である)。

だが、この世界に生まれて28年で、そんな理論はズボラの屁理屈として片付けられることも、よく理解できていた。

この世は綺麗好きでいつもきっちりしている、そんな人間はいくら世界を斜に構えていても正義だし、ズボラで酒に呑まれる人間はいくら性根が優しくて素直でも悪である。

お前はあまりに短絡的だ。目先の快楽を追い求めすぎるあまりに、将来の自分のために何かやっておこう、という精神がまるでない。その将来が、ほんの少しの未来であっても後回しにする、そんな人間を大人とは呼ばない。

彼にそう諭され、私はぐうの音も出なかった。翌日早起きの予定があっても泥酔するまで飲むし、仕事が残っていても誘われたら遊びに行ってしまう。だって、人生は楽しんだもの勝ち。何があっても未来の自分がなんとかするんだから。

…まあ確かに、短絡的かもしれない。おっしゃる通りである。

私だって言い分はあった。帰ってから片付けようと思っていた、とか、仕事が忙しくてそれどころじゃなかった、とか、脱毛サロンはキャンセル料がかかる、とか。

でも、どれもすべて、私が短絡的であるということに対する反論にはならなかった。

「一日一生」とは、今日1日を一生懸命生きること、仏教の教えらしい。

わたしの愛する椎名林檎の閃光少女では、「今日いまを最高値で通過して行こうよ…私は今しか知らない」と歌っている。

これ以外にもきっと、今この一瞬を大事にしよう、という言葉や歌はたくさんある。

わたしは、今を楽しく生きる、そんな自分でしか見れない景色も絶対あると思う。

でも、お寺の床にはゴミは落ちていないし、椎名林檎の部屋のテーブルはきっと綺麗だ。

もしかして、今一瞬を大事に楽しく生きることと、部屋の掃除を後回しにすることには、さほど相関性がないのかもしれない…

それが、今のわたしの結論だ。

 

わたしは今、改心して片付けや掃除をちゃんとしている。

あれほど時間が取られると思っていた掃除も、普段から使った場所を元通りに片付ける習慣をつけたら、一瞬で終わるようになった。

明日も楽しく生きるために、1日の終わりに筋トレをしたり、少し勉強したりしている。

時に、これぐらいいいか…というズボラが現れそうになったら、私はじっと大好きな椎名林檎と、彼女の綺麗でオシャレな部屋を妄想する。

きっと私は、片付けをしたって今この一瞬を大事に生きる、そんな丁寧だけれどロックな女になるのだ…と、今日もわたしは何度も布巾に手を伸ばすのだ。

クルーズへの憧憬

今年のバレンタインデーは、特別になる。

2023年2月に、ジェームズキャメロン監督、不朽の名作「タイタニック」が3Dリマスター作品として映画館に蘇る、そんな話を聞いて、わたしは確信していた。

何があってもチケットを取らなければならない。なぜなら、タイタニックは私にとって特別な作品だから。

映画自体は、新作ではないためか、1週間ほどの上映スケジュールのうちに、1日1回しか上映されなかった。

ちょうどこの時期は有給も取れず、土日しかあいていない。

しかも2月は第3四半期の決算も終わり、仕事からの開放感から、人と会う予定をめちゃくちゃに詰め込んでいる…

そんなスケジュール帳とにらめっこし、かろうじてとれた席は、朝の9時からはじまる部のほぼ最前列の端っこ、という、おおよそ映画ファンからは倦厭されるところであった。

朝、仕事よりも早起きをして、カップルにもまれながら、商業施設の一番上の階へたった一人で向かう。

いつもの自分では考えられないほどのフットワークであったが、これもひとえにタイタニックのため。

そう、実は私、こう見えても前世でタイタニックの乗客だったのだ。

 

それに気づいたのは、私が高校生のこと。

昔、私がおそらく小学生に入る前あたりのころだろうか、我が家にはタイタニックのビデオテープ、いわゆるVHSがあった。(ビデオテープにするにも長すぎたのか、上巻と下巻に分かれていた気がする。)

それを姉と、実家の応接間でベッドシーン目当てにこっそりみては爆笑していたのがタイタニックと私との現世での出会いである。

当時は本当に、ベッドシーンになんとなく面白さを感じていただけで、ロマンスや恋なんぞ考えたこともなく、明日はかくれんぼでどこに隠れるかだけを考えて生きていた時期である。

タイタニックも、特にストーリーについては何も理解していなく、恋敵となるキャルがどことなく間抜けで面白いと笑っていたことだけ覚えている。

そこからしばらくタイタニックはお笑いビデオとして扱われていたが姉と私との中でタイタニックブームが過ぎゆき、何年も見ることがなくなった。

2度めの出会いは、中学生ごろだっただろうか。

金曜ロードショーだかBSだか知らないが、とりあえずテレビでやっていたか何かで、観る機会があった。

幼少期の私にとってはベッドシーンとキャルが出てくるお笑い映画であったのは前述した通りだが、大人たちにとっては不朽の名作である。リビングのテレビでタイタニックが流れており、わたしも特に興味もなかったがほんの暇つぶしでみることにした。

すると、どうであろうか、成長して理解力や共感力の上がった私には、ギャグ映画から素敵なロマンス映画に変貌していた。

彼氏なんぞ人生でいたこともないが、運命の人ってこんな感じなんだなあ…と思ってみたり。

たた、それ以上に魅入られたのは、客船内のきらびやかな内装や装飾品、そして素敵なドレスに身を包む淑女たち。

船の運命は一旦おいておいて、あんな煌びやかで素敵な空間に、ほんの一瞬でもいいからいることができればなんて素敵なことだろう。死ぬ前にどうかタイタニック号にのりたい。そうすれば私は思い残すこともないかもしれない。

そう、気づけば、私の将来の夢はタイタニック号に乗ることになっていた。

 

ご存知の通りタイタニック号はもう沈没しており、もうタイタニック号にわたしが乗れるチャンスは2度とないことを理解はしつつ、それから何度もタイタニックを見続けた。

金曜ロードショーは、映画のあまりの長さに上下に分かれている。

それでも、船内の様子を一目でも見たくて、タイタニックを見続けた。

そうして気づけば、高校生になっていた。

 

高校生の私も、タイタニックを見ていた。

豪華な内装に、煌びやかな衣装、そして地元には存在しない海の素敵なこと!

こんなにも人生で魅了される映画があるのだろうか?と思って、私は悟ったのだ。

ああ、私は前世でタイタニック号の乗客だったのだ、と。

前世の自分も、煌めく世界に憧れてタイタニック号のチケットを取ったに違いない。

その時友人の中で流行っていたインターネットで数個の質問に答えたらでてくる前世占いで、友人たちの前世はオーストラリアのコアラだったけれども私だけクレオパトラかマリーアントワネットであったということも、私の説を後押しした。

きっと、私も前世ではローズのような貴族として一等客室に乗ったのだ。

そして、もしかしたら船と運命を共にしたのかもしれないし、生き残ったのかもしれない。

ただ、前世の私が怖いめにあったと思ったことはたしかだ。

だって、私は泳げないし水が怖い。そして、なかでも夜の海がとっても怖いのだ。

 

そう悟った時から、タイタニックは一番好きな映画になった。

そして、前世の私に比べて、ローズの貴族らしからぬ大胆さや、ジャックの育ちの悪そうな感じが少し鼻につくようになっていた。

この頃、やっとタイタニックを、船の映画ではなくジャックとローズの人生にフォーカスをあてて見始めたのだろう。

世間がジャック、ひいてはレオナルドディカプリオを王子様だのイケメンと絶賛し、ローズ、ケイトウィンスレットを絶世の美女と賞賛する、そんな風潮に疑問を感じていた。

美醜についてではない。顔面は二人とも美しいに決まっている。

それよりも、ジャックもローズも二人とも、好き勝手生きすぎである。だから私が見ててソワソワするし、ハラハラして心配になってしまう。

誰もが羨むタイタニックに乗れた。ただそれだけでいいではないか。二人とも、もっと落ち着いて、船を楽しんでくれないか。

この時の私がもしもタイタニックの監督だったら、おそらく壮大な「世界の車窓から」のような映画として名を馳せていたに違いない。…興行成績は、ジェームズキャメロン監督には負けるかもしれないが。

 

そこから大学生になり、一人で暮らす所謂貧乏学生、金銭的にもだが文化的にも貧乏な私は金曜ロードショーでしかタイタニックを見なくなった。

2週にわけての放送になるので、続きが気になる消化不良で1週めを終え、先週の余韻がすっかり消えたあとで2週めを迎える。

どのみち感激はするし、泣けるシーンはちゃんと泣ける。

ああやはりタイタニックはいい、と思って金曜は一瞬で終わり、翌日からの週末の予定に心躍らせる。

社会人になった私は、収入は上がれど文化的な貧乏さは学生時代を引き継いでいた。

送料無料が便利すぎるので、アマゾンプライムは契約している。つまり、プライムビデオが観れるのである。

だが、タイタニックは、どうしても会員料金にプラスアルファの課金をしないと見れない。

たかが数百円だったが、されど数百円、わたしの年収のいくらをゆらがすものでもないが、どうしても課金ができなかった。

 

前回の金曜ロードショーからどのくらいたったか…

そんなある日、不意に、タイタニックのリマスター版が上映される、とネットの記事を見かけた。

アマゾンプライムに数百円払うことはできないが、映画館の大きいスクリーンに数千円の課金は余裕、それがアラサー独身女性のリアルである。

ぶつ切りのタイタニックだって一番好きな映画なのだから、映画は是非みに行きたい!という軽い気持ちで、観に行くことを決めた。

 

時はバレンタインデー、世のカップルがこぞってタイタニックを予約している。

冒頭申し上げた通り、なんとも見にくい席で首の痛みとカップルたちから勝手に感じる精神的な圧と闘い、タイタニックを見ていた。

大スクリーンでみる素敵な船内と、素敵なロマンス。

大人になった私は、映画をじっくり見ることで、今まで知り得なかった色々な情報を手に入れることができた。

あの好き勝手生きて、少し粗暴にも見えるほど奔放なローズ。これはなんと彼女が未成年であることの表現、つまり幼さを表したものだった。(金曜ロードショーでは、彼女の年齢についての言及はカットされていたのかもしれないし、私がキャッチアップできていなかったのかもしれない)

また同じく、ローズとは違う世界線で生きており、彼女や観客を魅了してやまないジャックも相当若者であったこと。(一般的に男性は女性よりも精神年齢が低いというが、ジャックは苦労してきたから?か、かなり大人っぽく包容力も感じる。そのあたりが、世の女性の庇護されたい欲求を掻き立てて王子様と揶揄されたのだろう。)

彼と彼女の間には、当時ではどうあがいても一緒になれない家庭の事情や社会の事情があったこと。

ローズや貴族たちに比べ、明らかに貧しいジャックは、それでも自分自身に誇りを持ち、自分の人生を愛していること、そしてローズの人生の欲求と家庭との葛藤のこと…

 

ああこれは、タイタニック号がいかに沈んだか、いかに豪奢であったかというドキュメンタリーではなく、ジャックとローズの恋模様を描いたロマンス映画だったのだと、わたしはやっと初めて気づいた。

そして、あえなく沈むシーンはサスペンス映画。

そんなさまざまな技法が組み合わさったものがタイタニックだった。

 

そして、もう一つ、ひどく悲しいことがあった。

それは、昔から私を魅了し続けてきたタイタニック号に、昔ほど心が踊らなくなっていた自分に気づいた時だった。

この前ディズニーシーでご飯を食べたところに似ているなあ、とか、友達の結婚式の会場に似ているなあ、とか、

そういう似ているものにこの28年ほどの人生で、たくさん触れてしまったせいで、私のタイタニックへの感覚は、衝動は、感激は、麻痺してしまった!

これは、ジャックとローズの悲恋の行方よりも何よりも、一番衝撃的なことだった。

心躍らなくなってしまった私の前世は、もうタイタニック号の乗客ではないかもしれない。そうなると、私はただの泳げないアラサーである。それ以上でも以下でもない。

 

子供の時の私の心は、一体どこへ行ってしまったのだろう?

タイタニックへの渇望は、一体何に昇華されたのだろう?

そう、私は28歳にして、急に人生の目標を失ってしまった。私は何のために生きているのだろうか?

虚無感に襲われる。社会人になり、お金を必死で稼いでも、私は何に使えばいいのだろう。

大人になるというのは、子供のころ持っていた大切なものを失うということなのだと、初めて気がついた。

 

人が大人になるタイミングはたくさんあるはずだが、私は16歳ごろから精神的には変わっていない、と思っていた。映画タイタニック 3Dリマスター版を28歳で見るまでは。

タイタニック号へ乗りたいという、泣きたくなるほどの憧憬がなくなったこと。これが私の、成長であり、大人になったということだったということに、私はようやく気がついた。

 

私の中で、タイタニック号は、似た場所に行ったことがある、というある種見慣れた景色に成り下がった。

それでも、ジャックとローズのロマンスと、沈む船に対峙するサスペンス、そして色々な立場の人々のプライドと葛藤。タイタニックの好きな箇所は180度変わった。

でも、つまりは、タイタニックという映画が好きなことは、大人になってもずっと変わらない。

これが、私が大人になったあとで下した結論であった。

結婚するかもと思ってた彼氏にお金盗られて破局した話

ある日突然魔法少女に任命されたことはある?

目覚めたら異世界に転生していたことは?

平々凡々、母親にいきなり勇者認定されて魔王退治を命じられたこともない私は、いわゆる「晴天の霹靂」とは無縁の人生であったと心から思う。

いわゆるドラマティックなこともドラスティックなことも何一つないが、特に不足もなく、毎日なんとなく働いて好きな友達となんとなく遊んでなんとなく生きる日々に終止符がうたれたのは、あの日だった。

 

遡るは去年の3月。

私には、大学4年生から4年間付き合っていた大好きな彼氏がいた。

彼は非常に優しく、私は彼と付き合っている4年間、自分で靴紐を結んだこともないし鞄を持ったこともない。

エレベーターの「開」ボタンを押したこともないし、お店の予約すらしたことがなかった。

いわゆる蝶よ花よ状態で、なんでも彼がやってくれたのだ。

今日寒いねと言えばホットドリンクが自動で調達されて、ぬぎちらかした下着すらいつの間にか手洗いされている、そんな至れり尽くせりな生活が親以外からもたらされる現実。

わたしはその現実に浸かりきって、彼にだんだんと依存していくとともに、彼の無償にも感じられる愛に大変感謝し、こんな素晴らしい人間は他にはない、彼はきっとかの有名なイエスキリストかブッダの生まれ変わりか…と大変崇拝していた。

もちろん私はこんな素晴らしい彼を手放す理由はなく、毎日のように彼を褒め称えて将来的にも一緒にいてほしい旨伝えあっていた。

 

だが、そんな晴天と思しき平和な毎日にも、急に雷鳴は轟く。

忘れもしない2021年の3月のこと。

その日は、いつも通り在宅で仕事をしたあと、近頃の毎月の生理痛の重さに耐えかねて、保険証と現金だけを片手に初めて婦人科へいくことにした。

ただでさえ緊張する病院という環境、さらにデリケートなイメージのある婦人科、また病院ではがん検診や内診もしていただき、はじめての感覚に少しの羞恥心と少しの痛みとかなりの緊張を抱えて帰宅した頃にはヘトヘトだった。

家に着いた途端、そこには顔面蒼白な彼氏がいた。

 

何を話しかけても反応がなく、仕事で怒られたわけでも、プライベートで不幸があったわけでもないという彼氏。

もしかして…

「私に関すること?」

答えはYes。だいたい想像ができた、おそらく女の事である。

「ということは、私と、第三者に関することだね?」

答えはNo。あれ?

「第三者って意味わかってる?XXくんと、私と、それ以外の人に関することってことよ?」

わかってる、とYes。あれ?女の線は消えたか…あとはなにが…?

じゃあ何?としつこく問い詰める私と、私が警察に通報するかもと怯える彼氏。

「黙ってても何も進まない、どんなことか知らないが一生隠し通せない重要なことは白状するしかないんだから今のうちに教えてほしい」と伝えると、おずおずと口を開きはじめた。

 

「まるかちゃん(私)、最近外出る時小さいサブ財布で外出て大きいメイン財布家に置いていくやろ?

そのメイン財布に入ってたキャッシュカードから、ここ数日で何回かお金抜いててん…

70万ぐらい…

あと俺XXX万借金あるねん…

ほんまごめん」

これこそが、私にとっての晴天の霹靂だった。

 

遡ること5年前。大学生の彼は、バイトもして比較的自由なお金も増えてきていた。

そんな彼は、友人に誘われとある趣味に興味を持つことになる。それは、競馬。

馬がレースをして誰が勝つのか、お金を賭けて楽しむものだ。

学生のころは、月に1〜2万ほど賭けて遊んでいたらしい。

そして社会人になり、入社した会社で競馬関連の仕事を受け持つことになる。

元々の趣味に、仕事の付き合いという面もあり、みるみるうちに競馬へ浸かっていった。

自分の自由になるお金では歯止めが効かず、ついに数百万の借金を抱えることになる。

そこで、目をつけられたのが私のキャッシュカードというわけだ。

飼い犬の誕生日という暗証番号がなぜばれたのかは知らないが、おおかた背後から確認などしたのだろう。

 

 

その後は、気が動転していたため自分では正常な判断ができないと考え、

家族ラインに端末を伝え、これからの行動について相談した。

とりあえず引き落とされた金額の把握すること、また返済の意思や返済予定を確認すること、全て終わったらもう家を出ていってもらうこと、を伝えられた。

 

借金にまみれている彼にはもちろん返済能力などなく、しかし実家にバレたら今度こそ縁を切られるという恐怖もあり、友達に借りるか、もしくは月1万ずつでも返すから待っててほしい、それでも無理ならもう死ぬしかないなどの脅しも受け、個人的にかなり疲弊したが、

結果なんとかご両親との会議を設定すると約束してもらい出ていってもらった。

仕事が忙しいという理由で両親への報告も3日引き延ばされるなど、散々であった。

 

会議の時に相手のお母様が欠席だったり、私のいる場所を開示しているのに電話一本で済まそうとするなど、

相手の対応についても、個人的な価値観ではやや不信感がある対応だったが、ご両親からお金は返ってきた。

 

金は帰ってきたが、わたしの借金男に費やした20代前半〜中旬にかけての大切な4年間は一生戻ってこない。

傷心の私に、母親がなぐさめに連れていってくれたドライブの道中の、「男の子は何歳でもやり直しきくけど女の子はそうもいかない、そこを理解してもらわな困るよね…」という言葉が忘れられない。

 

犯罪は、加害者が一番悪い、そんなことは誰だってわかっている。

だが、今回は、おそらく私にだって落ち度はあったと思う人もいるだろう。

彼が使っているカードがクレジットでなくデビットであるとわかっていれば、

彼の財布に入っている診察券が、ギャンブル依存症を扱っている病院のものであることがわかれば、

私が毎日口座残高をチェックしていれば、

馬券がオンラインで買えることがわかっていれば、あるいは。

私は、人生ってどうしてこうも平等なのだろうと思った。

私は、彼に聖人君子のような幻想を抱いていたのだ。

実際は、優しくて丁寧な尽くしてくれる彼氏、そんなものは彼のほんの一部で、神様は平等に、彼へ欠点だって地獄だって惜しまず用意してくれているのだ。

恐らく、誰かの長所短所天国地獄、それら全てを知ることは大変に難しいことなのだろう。

それは他人はもちろん、自分のことだって、まだまだ知らない一面があったりするのかもしれない。

 

だから、窃盗をした彼の、途方もなく優しい一面も否定される、というのは間違っていると信じたい。

あの優しさも、金への執着も、すべてが彼を形成する一部で、それら全てがきっと彼の財産になるはずである。

 

 

私は、そんな壮絶な別れの翌日から、マッチングアプリをインストールし、何年も連絡を取ってない人にだれか男を紹介しろとラインした自分のバイタリティに誇りを持っている。

全くモテなかったマッチングアプリだが、なんとかやっと彼氏ができた。

 

彼氏ができても、いまはだれも靴紐を結んでくれないし、鞄だって自分で持っている。

寒くなったなと思ったら自分で自販機に行って温かい飲み物を買うし、掃除も洗濯も自分でして生きている。

いまの彼氏は、

水族館にいけば一生魚の豆知識を喋っている、

可愛いパフェとの自撮りを送っても今日も可愛いねの一言もなくパフェの素材に興味を示す、

なかなかマイペースだけれど、

でもクレジットカードは持っている。

今までわがまま放題だった私には少し慣れないところもまだある。けれどもそれでいい。

あなたも私も、知っていることはほんの一部だから。

痩せたい怨霊

最近、コロナ禍で在宅勤務が主流になったこともあり、だいぶん肥えを感じている。

くびれのない腹が気になって服もイマイチ着こなせない。

この極寒の冬でさえピチピチの服を好む私は、全身鏡の前で焦燥感に包まれていた。

 

…そうだ、運動しなければ…

 

運動が苦手な私もついに、汗と怒号あふれる(怒号についてはジム初心者の単なる杞憂であった)恐るべきフィールド、「ジム」へと一歩を踏み出した。

 

 

そこはカッコつけの私らしく、ジムも一味違うカッコよさで選ぶことにした。

そんな私のキーワードは「ニューヨーカー」。

以前ヨーロッパ行きの機内で見た「I feel pretty」のレネー・ベネットが通っていたインストラクターの人に励まされながら自転車を漕ぐやつか、「バーレスク」のような妖艶で素敵なポールダンスか。

そんなことを考えて色々なジムを巡ったところ、「Jump One」という名前の、「暗闇でトランポリンを音楽に合わせてひたすら飛ぶやつ」にたどり着いた。

 

音楽に合わせ、インストラクターさんが飛ぶのをマネしながら暗闇で飛び跳ねたりダンスしたりする。

トランポリンなので地上より高く飛べて面白いし、クラブのようで楽しかったというのもあるが、

結局の決め手は体験レッスンの時に一番強い勧誘を受けたから、というのがあげられる。

それぞれそれなりだけど決め手に欠けるなあ、というときに強い勧誘を受けると、もう面倒だからコレでいいか、と流されてしまうのは自然なことだろう。

腹ペコのときに見知らぬ定食屋さんに行ったとき、「店長オススメ」を選んでしまうのと同じ原理である。

 

そんなわけで、私はJump oneに入会し、トランポリンをしている。

 

実際に入会してみると、思っていたよりも年配の女性もたくさんいるなあ…という感想だった。(もちろん、若い方もたくさんいらっしゃるが)

生徒の人たちはみんな、インストラクターの人やほかの受講者の人とやたらと親しげに会話をする人がいたり、人見知りの私は少し引いてしまうほどに社交的な場所であった。

 

また、服装もみなにそれぞれで、そのまま海にダイブできる水着のような露出の多い恰好をしている人も多く、非常に開放的な様子である。

(正直他人の服を気にしてみているような人はいないので心底どうでもいい。前回レッスンの時に隣の人がズボンをはていないように見えたことも、私の靴下が絶望的にダサいことも、そんなこと本当にどうだっていいのだ)

そして全員玄人のような雰囲気を醸し、その道20年といった貫録でキビキビと飛ぶ。

こちらが心配になるほど小柄なひとも、少しぽっちゃりしたひとも、一様にすさまじい跳躍力をもって一瞬一瞬を飛び跳ねている。

 

 

生徒たちが飛んでいるさまを後ろから見るのは、本当に圧巻である。

どんなに負荷のかかるレッスンも、生徒全員がインストラクターを血眼でみつめながら、一心不乱に飛んでいる。フラフラでも、決して立ちどまる者はいない。

それはまるで砂漠を必死で乗り越えんとするサバクトビバッタの大群のような、そんな浅ましくも強かで美しい、本能としての人間の生きざまを見られたような気持になる。

ああ、これほどまでに人間を野生に還すのはなんなのだろう。

 

そう傍観する私には、Jump oneへ通う人々がどのような目標・目的をもって通っているのか、そのすべてを知るすべはない。

だが、少なくとも私には、「痩せたい」という欲求に対する、怨念のような、恨みのような、生涯わたって追及すべき呪いのような、そんなほの暗いゆらめきを感じるのである。

 

私にも見える。ほの暗くどろどろと揺らめく、「痩身」への呪いが、「美」への怨念が。

「痩せたい」呪いを持った怨霊が、私を手ぐすねひいて待っている。

 

 

きっと私は知るだろう。近々月4回コースの契約を、行き放題無制限コースの契約に変更する私を。

きっと私は抗えない。インスタのストーリーで「トレーニングしんどい、体力ない、、、*1」という言葉と共に、割れた腹筋を見せながら自撮りをしたい、、という欲求に。

*1:+_+

世界に祝福の香りを

匂い、香り、というものは、ふと昔の出来事や自分の心情を思い出すファクターになる。

それは時に、文章よりもダイレクトに、写真よりも刻銘に、主観的な記憶を蘇らせるものではないか、と思うほどである。

 

たとえば私は、「エレベーターのにおい」に異常に興奮する。

エレベーターの香りをかぐと、どうも心臓がドキドキして、ワクワクしてきてしまうのだ。

大学生までなんとなく「エレベーターのにおいは大体の人が興奮する」とぼんやりと信じていたのだが、たいして仲良くない友人とエレベーターに乗り合わせた際、「エレベーターのにおいってなんかいいよね、私興奮する」という旨の会話で場をつないだとき、否定の言葉と怪訝な目を向けられたことがある。

そのときになって、どうやらエレベーターのにおいに全人類の興奮を催す作用はないらしい、ということを学んだ。

本屋さんで便意を感じる、というような、明確な科学的な根拠がなくても何人かの共感を得ているものはたくさんあるのに、エレベーターはそういう類ではないのか、不思議なこともあるものだなあ…とゆるゆると理由を考え続けていた。

帰省し、数年ぶりに実家の近所のスーパーに行ったとき、脳天を突かれた思いがした。そのスーパーのエレベーターこそが、一番私の心を揺らしたのである。

なぜ?と思ったとき、私の導き出した結論がこうだ。

私の生まれ育ったまちは、大変な田舎であった。

例えば最寄のイオンは車で1時間弱のとなりの市へ繰り出す必要があり、市内のレストランやカフェ、本屋やスーパーは広大な敷地を生かした1階建てである。

そんな中、生活圏内で唯一の3階建て(といっても、屋上は駐車場なのでの実質2階建てなのであるが)建物が、そのスーパーだったのである。

そして、私の生活圏内で唯一エレベーター・エスカレーターがある施設だった。

母は専業主婦で、スーパーへの買い物は私が学校に行ったり友達と遊んだりしている間にたいてい済ましてしまう。

そんな中で、たまーに訪れるスーパーへ同行できるチャンス、それこそが私の興奮の原動だったのではないか、と思うのだ。

スーパーはいわば非日常であるし、同じ建物内にかわいい文房具屋やおもちゃ屋も入っていたから、好きなおやつやおもちゃ、文房具を買ってもらえるチャンスもある。

車にだって乗れるし、途中にあるたこ焼きも買ってもらえるかも。

そんな唯一のトキメキが、「エレベーター」の存在するそのスーパーだったのだ。

だから、屋上の駐車場からあのエレベーターに乗って店内へ入ってゆく、そのプロセス途上にかぐエレベーターのかおりが、たまらなく私を興奮へといざなっているのであろう。

そして条件反射的に、まるでパブロフの犬のように、20代も半ばにきた私にも、そんな興奮を与えているのだろう。

 

 

 

最近、はやりのCOVID-19で、緊急事態宣言があって外出を自粛したり外国にいけなかったり、目に見えないものに怯えたり自分を疑ったり、とても非日常で、ある意味なかなかに思い出深い日々になっている。

部屋でぼんやり家にいると、この不安な日々の思い出のにおいは何になるのだろう、と思うことがある。

なんせ85歳の私の祖母に「こんなことは生まれて初めて」と言わしめたコロナ禍である。これから私の人生が恙なく続くとして、こんな経験は最初で最後だ…と思いたい。

怠惰な性分ゆえか、自粛期間中に何か新しい試みをはじめたりしなかった自分には、家に出なかった数か月、なにかメモリアルな思い出が何もない。ただ家から出られず友達とも過ごせず、テレワークも慣れずひたすら出前とウーバーイーツに助けてもらった、そんな思い出だけである。

まだまだ予断を許さない状況の中、終わったあとのことを考えてもなにの意味もないのだが、この自粛の記憶もゆくゆくは風化するであろう中で、何がこれからの人生でこの記憶を思い出すトリガーになるのであろうか。

テレワークのために買ったイスか、友人とのリモート飲み会のときに飲んだ赤玉ワインと鬼ころしの味か。それとも、もうずっと、あの外に出られなさ過ぎて狂うかと思ったことも、つらかった記憶も、これから訪れるアクティブな記憶に上書きされていつか客観的な事実でしか思い出せなくなってしまうのか。だって、もうすでに、あのときの心情の記憶なんて薄らいでいるのに……

 

 

そう風呂で逡巡する刹那、むせかえるような甘ったるいにおい。

ああ、そう、このにおいを毎晩かいで、せめて気持ちだけは非日常なリゾートを想いながら自粛を乗り越えてきたのだった。

 

私を落ち込む気持ちから少しでも跳ね上げてくれたもの。

それは、崇高な教授のひとことでも、あこがれるアイドルの写真でも、見えざる神を信ずるバイブルでも何でもない、

ただグアムのスーパーでそれぞれ数ドルで手に入れた、あまったるいココナッツのにおいがするシャンプー・リンス・ボディソープ、ただそれだけ。

 

 

ああきっと、すべてが丸く収まってまた毎日飲み歩けるようになったら、この不安定な気持ちもつらかった記憶もすべて忘却の彼方へゆくに違いない。

ただ、あのいかにも人工的なあまったるいにおいが鼻をふと掠めたとき、

きっとその時に、そんなこともあったなと心からの安堵を世界に贈れることになる、そう信じて日々を乗り越えてゆくしかないのだ。

 

 

 

 

 

 

椎名まるか

終わりへの渇望か、途上への焦燥か

たとえば、長く読み続けてきた漫画を最終話まで読了すること。

世界には何十年も完結しない作品がある中で、大好きな漫画だったら、読者にとって最高ともいえる状態であろう。

自分と同じ時間軸で存在している、唯一無二といえるような作品を完結まで見届けられること。そんな奇跡と呼べるようなシチュエーションの中で、激しく獰猛な虚しさに襲われることってないだろうか。

 

長く続くお気に入りの作品。

読み込んでいくたびに、友人以上に親近感がわく、ずっとずっと近くで見つめてきた登場人物たち。

家族以上に心情が手に取るようにわかる、共有されるいろいろな彼らの感情と、その共有の終焉。

もう二度と彼らの生活を覗けないという切なさに、はじめてであったのは、小学生のとき。母親が熱心に集めていた漫画、「花より男子」だった。

 

イケメンな松潤と可愛い井上真央ちゃんのドラマを毎週楽しみに見ているわたしが、偶然書庫に格納されていたその漫画にとっさに手が出たことは自然の流れだった。

壮絶な恋もしたことがない、右も左も分からない時代だったが、当時読んでみて、それはすぐに圧倒的なバイブルになった。

この心臓の痛みを抱えたまま死を覚悟するほどときめいたし、目があかなくなるくらい泣いた。許せないほど腹が立つ登場人物もいたけれど、それでも一番、どうしようもなく胸をかきむしりたくなったのは、最終ページを読み終えた後だった。

 

作品としてはきっと、何ら問題ない。

打ち切りで無理やり終わらされたとか、複線も回収しないまま終わったとか、そんな不満は一切といっていいほどなかった。

ただ、この漫画を読み終わってしまって、このまま取り残される自分が可哀相だった。

ああ、これがもし映画やドラマだったら。演じている俳優さんがいるから、終わってからも何となくつながりを感じることはできただろう。

悲劇のヒロインも死んでしまった彼も、俳優の名前で調べたら近況が出てくるし、もしかしたらツイッターだってやってるかもしれない。

でも、漫画や本は、そこにしかいない。

現実世界につながりは持てず、何度もフラッシュバックする素敵なセリフも、見せるあの笑顔も、個性のある考え方も、すべて限りある紙の中にしか存在しないのだ。

いくらハッピーエンドで終わっても、いくら笑いで終わっても、最後のページにたどり着いたら、その時点で私との関係性は終わる。

それから先のことを想像してみても、それは私の想像でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。

 

もう二度と彼らの人生に触れることができない。もう一度読み返しても、それは新しい体験ではなく過去をなぞっているだけであって、彼らの未来ではない。

心から信頼できる親友がいきなり失踪したような、ずっとあこがれていた人物がいきなり地の果てに引っ越したような。そんな喪失感をずっと抱えたまま、いつかこの気持ちを乗り越えられる日がいつか来るのだろうか、と未来の自分に思いをはせていたことを思い出す。

 

 

 

いまは一人暮らしをしていて、紙媒体の何かに触れる機会がなくなってきたと思う。その代わり、もっぱらスマホを通していろいろなものを見ている。

アプリで漫画を見たりするが、たいてい無料で読めるのは一日一話ずつだ。常におあずけ状態であるし、翌日には前回までの話をあまり覚えていないから、心をすべてそこに費やすことはあまりなく、読了しても猛烈な切なさを感じることはあまりない。

そんな中で、最近は、インターネット上でブログ等に個人が公開している、小説やエッセイを覗きにいくことが好きだ。

誰のものでもない、私には全く関係のない人々のストーリーや日々の出来事を見ているだけなのに、つい一喜一憂してしまう。

切ないストーリーにグッと思い詰めた日なんかは、もうそれだけでおなかいっぱいで、晩御飯が喉を通らないほどに。

それだけ夢中に飲み込まれていく作品を探し回っていると、たまに大昔のサイトに行きつくことがある。

夢中で読み進めると、作者がとっくに更新を中断していて、完成していない作品を見てしまうことがある。

勿論、作品が完成なされていないのは作者の自由であって仕方のないことだ。

しかし、ものすごく感情移入してしまうほど面白い作品にせっかくであったのに、続きを用意してもらえない自分は、猛烈な感情の波に揺られたままどうすればいいかわからずただその感情に溺れ続ける、その欲求不満に暴れだしそうになる獣のようなものである、とすら思う。

どれだけ私が愛しても、他者の作るコンテンツは、その他者の尽力がないかぎり永遠に完成することはない。

サグラダファミリアのように、いつまでも完成しないこともむひとつの価値を形成するものもあるが、そんな美徳ではこの渇きはうるおせない。

 

 

 

だから私は、花より男子を読み終わったあとの、あの頃の自分に問う。

終わりがあることへの喪失感と、永遠に終わらないことへの喪失感。終わったことへの憧憬と、続くことへの焦燥。どちらが果てしなく、どちらが胸を締め付けるか、と。

 

答えはただのひとつもわからない。ただ、それぞれの出会いもきっと、自分の人生の要素になったんだろう、ただそれだけである。