Nostalgia

きまぐれメモリアル/日常エッセイ/ドラマティックあげるよ

ウミガメ考〜本能〜

ーーーこんな思いをするくらいなら、いっそ死ねたらいいのにーーー

 

しがないオフィスで、音姫を鳴らしながら必死で神に祈るわたしは、はたから見ると滑稽なのだろう。

そういえば、昔読んだ漫画に、女子トイレには必ず男性の浮遊霊がいると書いてあったが、20代中盤社会人女性のトイレ姿も覗いてくれるのだろうか。

そんなことを考えながら、祈っても祈っても救われない、そんな思いに嫌気がさし、ついに死を考えるほど追い詰められた状況。

生とは?死とは?そんな概念を考える間も無く、ただ浮世を漂うちっぽけな自分の大きな戦い。

一体わたしが何をしたのか?悪いことでもしたか?神は、運命はわたしをどうしたいのか??

そんな命題に行き当たったのは、つい最近のことだ。

 

そう、わたし、ウンチが出なかった。

 

ただ出ないのならまあ仕方がない。

いつでも出せますぜという信号が肛門から送られてきている、それなのに出ないのだ。

 

文章にするとなんてことない。お昼休みの話のネタにすらならないようなことかもしれない。

けれど、本能に従って力を入れて、なかなか放出の快感がこない苦しみは、生殺しというか、生き埋めというか、据え膳食わぬはというか、、形容しがたい苦しみなのだ。

 

ウンチはしないと死ぬ。そんなことは常識だ。

ウンチがしたくなるのは生理的現象、すなわち本能で、出たら快感なのもきっと本能。死なないようにプログラムされているのだ。

 

人間も、突き詰めたら動物。お腹がすくのも眠たくなるのも、すべて生命活動を維持させようとする本能によるものだ。

 

だが、ああなんたること!

こんなに本能に従って、頑張っても、頑張っても、一向に報われない!!!!

5ミリぐらいは出ている気がして、ペーパーで拭くと何もつかなくて。

そのまま執務室に戻るのもお尻が気色悪いし、便意があるまま仕事の続行はしたくない。

ジャンプしてもきばっても緩めても何をしても入り口付近から動かない。

わたしが一体何をしたの?わたしになにを期待しているの??どうして私だけ苦しんでいるの???

 

その日は結局気色悪いままパソコンとにらめっこし、帰路に着いた。

 

帰路に着いてトイレにこもっても、なにをしても出てこない。

検索ワードも、

 

うんち 出ない なぜ

うんち 出したい 出ない

排便 できない どうなる

うんち 出ない 死ぬ

 

と、だんだんとネガティブに染まっていく一方。

 

調べてわかったことは、とりあえず、うんちが出ないと死ぬのだ。なんか、腸とかが爆破してみたいな感じで。

じゃあ、この肛門の気色悪さと解消できない便意を持ったまま死ぬのだな。

明らかに肛門出口付近にうんちがあるのに糞詰まりで死んだ私をみんなは何と思うだろう。

本能に抗ったように見えるのかな。ただ本能が私を助けてくれなかっただけなのに。

このまま、もう素敵な世界を見ることも、空飛ぶ絨毯に乗ることも、タイタニックに乗ることも美味しいご飯を食べることも、洞窟もジャングルも探検することもなく、糞詰まりという不名誉な死因であっけなくこの広くて未知なる世界から去っていかなければならないのだ。

 

そう思うと悲しくて悲しくて、社会人になって愛犬が死んでしまった以来、はじめて泣いてしまった。

 

数億決算処理を間違えて上司に怒られても泣かなかった。

知らない部長にキツく当たられても泣かなかった。

なにをしたって泣かなかった私が、ついに本能には逆らえなかった。だから泣いた。

その時の涙は、ドラマみたいな綺麗なものではなく、もう動物に近かった。本能に助けてもらえなかった私を、最後に動物に戻してくれた。これは世界の唯一の慈悲なのだと感じた。

 

おいおいと泣いたあとで、サランラップに包んで保管していた亡くなった飼い犬の毛をそっとなぞった。まだ死ぬまでに日にちはあるはずだから辛いけれど精一杯頑張ろうと思った。幸運にも悲劇のヒロインになったことがなかった私を、ポジティブなミュージカル女優にしてくれた犬なりの慈悲を噛み締めてまた泣いた。

 

結構泣いたので、とりあえず最後の晩餐に外の自販機で三ツ矢サイダー十六茶を買って飲んだ。その日はお風呂にも入らず歯磨きもせず寝てしまったらしい。

 

翌日は、死期が迫っているとわかっても出社を止められなかった。朝から違和感を連れて仕事をして、食欲もないまま食事。

お昼はアジフライだったように記憶している。

食堂のおばちゃんが顔パスでご飯を大盛りにしてくれ、食欲もあまりなかったが愛想笑いのままとりあえず口に運んだ。

 

2時ごろ、転機が訪れた。なんだか今までとは違った種類の便意を感じたのだ。

ロケット鉛筆押し出し理論で、食べたから出るのではという可能性が脳裏に浮かんだ。そこから先は、自分の命のために、まだ見ぬ絶景のために、将来の結婚相手と子供のために、トイレに立ち上がり颯爽と向かった。

あの時の私はきっとなによりも凛々しく何よりも力強く何よりも美しかったはずだ。

 

いつもより早足で個室へ入る。ドアが閉まり、鍵のかけられた音が静かなトイレ内で大きく響いた。

勝負の時がきた、と思った。今まで吹奏楽やダンスなど、自分の技術を極めることはあっても、何かと張り合うことは人生ではじめてだった。人生を左右する戦いに挑む、そんな崖っぷちのカイジみたいな気持ちは、今でもありありと思い出せる。

すう、と息を吸い込みスカートをたくし上げタイツを下げる。USJで買ったスパイダーマンのパンツが極彩色を放っている。この時のパンツは紛れもなく人生で一番鮮やかなピンク色だった。

 

もう外聞なんてどうでもいい。音姫もつけず、一心不乱に肛門と向き合った。しんどくて辛くて、内臓が全て出てきそうな錯覚に陥る。助けてほしいが頼れるものは己の体のみ。神への祈りも捧げる余裕もなく、必死で力を込める。昨日よりも強く、凛々しい自分がそこにいた。

 

くる、と思った。

これ、と思った。

そう思うと、激痛が尻を襲った。

硬い何かが肛門から1センチ排出されている気がした。

出てくるにはまだまだだが、昨日より5ミリは出ている。このまま油断して緩めてはいけないが、本当に痛くて痛くてたまらなかった。トイレで感じた痛み部門で、人生で一番だった。

出そうだが痛くてたまらない、このまま進むも退くも地獄とはこのことだった。

大声で叫んで誰か来てもらう?救急車をよぶ?いや、そもそも今後の人生で、この痛みを我慢する価値があるのか?

いろいろなことを考えたが、もう進むしかない。やらない後悔よりやった後悔。

 

ふんぬーーーー!!!!という声が自然と口から漏れたのは、後にも先にもこの時だけだろう。

 

大きく息を吸い、静かに吐き出す。

音のない静かなトイレ内で、私は久しぶりのすっきりした感覚に包まれていた。

言葉で言い表せないほどの達成感の波と、少しの安堵。そして更に少しの尻の痛みに包まれながら、しばらくぼーっとしていた。

目尻に溜まる戦いの結晶。涙を拭いながら私はウミガメの産卵を思い出していた。

 

 

こんなに辛い思いをして、苦しい思いをして、生きる意味はどこにあるのか?

そう考える人はとても多いと思う。

だから自ら死を選ぶ人もいるし、生に対する欲がない人もいる。

確かに、生きる意味を考えるのはとても難しい。

例えば客観的な生きる価値を考えた時に、ノーベル賞とか何かを開発するとか、そんな偉業を遺す人生を歩める人はそうそういない。

だから、動物に立ち返って考える。

ショッピングも出来ないし映画も見れない、生麩田楽も食べれないウミガメが泣きながらでも出産するのは、種の存続のため。

人が生まれるのは種の存続の結果であり目的である。

わたしは人間の生死感はそれぞれの幸福追求に依存していて、幸福追求権を持つ以上自分を煮るなり焼くなり自由にするべきだと思ってきた。

けれど、この経験を通じて、この古代から紡がれてきた命に対して少しだけでいいから責任感を持つべきであると感じた。

直近でいうと、親が泣きながら紡いでくれたこの命、せっかく世界を使い果たす権利があるなら、可能な限り使い込んでから投げ捨てても遅くはない、気がする。

もちろん、自由意志で生きる人間なら誰しも、命の選択はそれなりに可能だ。

でも、歴史に残るような偉業が残せないなら、せめて自然とくる寿命まで一つの種のごく一部として生態系を構成すること、それがヒトとしての生きる価値だと思う。

 

 

そんなことを考えながら、レバーを引いた。

ごく小さな茶色い塊がすっと吸われて、あとは白い便器が残るのみだった。

とりあえずわたしは生にしがみつく。

本能のまま、運命のまま。

 

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レディースデーな1日

今日は、本当になにもしない1日だった。

1ミリも動かず、ひたすらダラダラしてみたりして。

本当は、映画に行って岩盤浴に行く予定だった。

でも、なぜだか朝から生理がきてみたりして。

 

やる気も起きず、いつもより嫌いなものも増えて、面白くないことも増えて、辛いことも増えて、どうでもいいことも増えて、きがついたら布団で寝ている。

生きるために美味しくないペンネを食べて、泣きそうになりながら壁紙のシワを眺めたりして。

 

ああレディースデーってやつは、本当に罪深い。毎日ニコニコしているハッピー野郎のはずの人間を、一気に自分の犯した罪の苦しみと戦う罪人にしてしまうのだから。

 

ホルモンの乱れ?みたいなやつで、多分多くの女性が情緒不安定になったり、腹痛に苦しんだりしているのだが…、

これはもう、ああ、なんて気持ち。辛い?悲しい?そのどれも?

 

過去への償いや後悔が一気に押し寄せて、深い闇に突き落とされそうな心地だ。昨日の発言の反省、一昨日の振る舞いへの後悔、先週感じた不思議な気持ちの原因追求………

 

きっとこれは、不完全なわたしへの人生を見つめ直すチャンスに違いない。

そう思ってなんとか償おうと、改善しようとするけれども、心では自分は悪くない、と思っているのだろう。

 

話もうまくない、見た目もよくない、化粧もうまくない、ああ、なんてつまらない人間に成長したんだろう。前世はとんだ悪人だったに違いないのか。

 

人生の答え合わせはいつ?休日?結婚式?死ぬとき?

 

ああなんとも、生き方を今更変えるのは難しい。けれども、とっときの魅力のある、惹きつける魔力のある人間になりたいという欲望を抑えるのは一番難しい。

受け止めるのは辛いけど、生きて出会ってきた全ての人にわたしの悪いところ20個ずつ教えて欲しい。

 

泣きそうだが、自分に泣く資格はない。 なにも解決しないことはおろか、、、いや、もう解決しなくてもいい。

でも生まれてきたからには、生み育ててくれた家族のためにも、なんとか幸せになりたい。別に幸せじゃなくてもいい、みんなに理解され必要とされてイキイキと生きていきたい。

 

才能に恵まれたい。何か少しだけでも、素敵な才能が欲しい。お芝居ができるとか、歌が上手いとか、話が上手いとか、文章が上手いとか、絵が上手いとか、おしゃれだとか、ヘアアレンジが上手だとか、泳ぎが上手いとか、なんでもいい、ただほんの少しだけ、一握りにしか与えられない何か素敵なものが欲しい。

 

みんなが羨ましい。今を精一杯生きてるみんなが羨ましい。未来も過去も、なにもいらない、なにも考えずがむしゃらに生きていたい。なにも理解できなくてもいい。ただ人間だけが大好きで、人間だけに好かれるならほんのそれだけでいい。全員に必要とされて、笑いかけてくれるならただそれだけでいい。

 

綺麗な顔が欲しい。肌荒れもなくて、陶器みたいな肌が欲しい。クールで涼しげな口元が欲しい。外国人みたいな上向きの鼻が欲しい。

 

 

ああ、人生ってなんでこんなに辛いんだろう。なんでこんなに試練が多くて、なんでこんなに眠いんだろう。

 

きっと寝たら全て忘れてしまうから。だから、一応問いかけておく。

ご飯のことしか頭にないわたしと、嬉しいことしか頭にないわたしと、楽しいことしか頭にないわたしと、悲しいことしか頭にないわたしと、辛いことしか頭にないわたしと?いったいどれが自分の本性なんだろう??

 

よくわからないけれど、今こんなに苦しいのはきっと、レディースデーのせいだと信じている。

来週はもっとうまく笑えて、来週はもっとうまく立ち振る舞える。きっと。なんとか。

辛いことは多いけど、きっと聞いてくれる誰かがいる。きっと。なんとか。

ダメなことが改善するのは難しい、けど、自分を守らないようにして生きていける、そんな日が来たらいいなあ、って思ってる。

なぜか?に答えてくれる人は、世界のどこかにきっといるはず。

辛いけど、考えなくては。きっと、考えなくては難しいことだから。なんとか、この胸のつかえが取れるようにしなくては。

 

多分この文章を誰かが読むことも自分が見返すこともないけど、今度はちゃんと言葉に出せたら嬉しいな。なかなか言葉にできないけどね。さらっとすっと言葉に出すの。なかなか難しいけどね、でも怖がってても仕方ないから。

自分がいきた証?って、こういう些細なところに散りばめられるのかもしれないなって思う。

だってわたしも、いろんな人の証をこうやって吸収してるんだもん。

本当のわたしをわかってくれる人が、いるはず…?なきがする。世界は広いから、見つけるのは大変だけど。

 

だから、理想と現実のギャップに苦しむのはもうやめたい。たぶんこんな生理のときだけ。

 

 

レディースなデイはだいたい、世界の女性はこんな気持ち、、

映画忘備録

ローマの休日

 

前見たのは、小学生の時、年の離れた姉とだったような…。

当時は姉がなんでこんな白黒でザラザラの外人しか出てこない映画を嬉しがって見るのか意味が不明だったけど、今見たらすごくときめいた…!

なによりとっても異国情緒溢れる街並みが綺麗。白黒なのに、空も花も街並みもとってもカラフルに見えた。

今でこそ飛行機でひとっ飛びで外国の街並みなんてパルケエスパーニャに行くだけで見れるけれど、昔の人は一生行けないかもしれない、あんなにすらっとして綺麗な外国の人に一生会えないかもしれない、そんな伝説のような、桃源郷を見るような気持ちで見てたのかもしれない。

 

わたしの人生でのそんな映画がタイタニックだったことを思い出した。タイタニックの非現実的でロマンチックで、綺麗と言う言葉だけでは表現できずもはや苛立ってくるような船内は、十数年経った今でもわたしの世界観を縛っている。きっとこれを見た人も皆、これからの世界をローマの休日っぽいかどうかで測る尺度を持ってしまっているに違いない。

 

内容としては品行方正にほとほと疲れ果てた王女様がこっそり家を抜け出して外の世界をみて恋に落ちるという話。

大人同士の話で、いわゆるなんかいい感じの男女なのにベッドシーンとかはないのがむしろ新鮮な感じがする。ないからこそ、別れが切なくて、でも二人の絆が永遠に続いて行く気がするのかも。

ローマでの思い出を生涯忘れない、と語った王女様。あんなに自由で奔放な1日は、人生最初で最後になるだろうという、綺麗で素敵な言葉だがどうしても悲しさを拭えない自分。

王女様がこんなに恋い焦がれた自由な1日を、こんな家でYouTubeを見ながら寝てるだけでいいのか?という問いと真摯に向き合った1日だった。

そういえば世間から隔離されて育ったカジモドも、塔から見おろせるあの世界で1日過ごせればもう何もいらないとおっしゃっていたが、そんなに色んな人の羨望の的である自由を、こんな自堕落な時間に使ってもいいのか?人生を問い続けた1日になった気がする。

 

最後、王女様の最後のローマでのインタビュー。見つめ合う二人に、最後はさっと踵を返して振り返らず行ってしまう王女様と、最後まで未練がましくホールに残り、ゆっくりと出口へ向かう男性。

王女様が追いかけてきてくれたら…。そんな思いを無慈悲に打ち消すthe end。

ハッピーエンドじゃないと辛くて眠れないから、どうか美しい二人に幸せを。神様お願いします。

 

 

どうでもいいけど、キスシーンのとき、男のひとの首筋のシワがすごい気になってしまった…。男のほうが体勢的に無理しがちだし、オードリーヘップバーンは美人すぎて誰も無理してシワ使って欲しくないし、仕方ないのだけれど、なんかどんな人にもキスシーンではシワができるんだなと思うと悲しくなった…

石鹸を愛している、という話 1

 

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を愛している、という話

 

スポーツに舞台、歌にダンス…世界に、「趣味」と名乗られているものはいったいいくつあるだろう。

得意なものは?という自意識過剰な質問に答えるのは気が引けるけれども、「趣味」なんかは自分の話。大好きなものを語ることは、別に誰の咎めも受けない。

 

だから、敢えて高らかに叫ぼう。私の趣味は、「石鹸」である!!

 

石鹸、と聞いて、ひとは、はあ、と思うかもしれない。全く興味はないかもしれない。そらそうだ。だって私という他人の趣味だもの。えてして、ひとは他人の趣味や好きなものなんかに興味なんてないのである。興味を示されるのは、鈴木亮平とか、そんなたった一握りのイケメンや美女だけ。分かっている。でも、抗えない自己顕示欲があるから、ついつい語ってしまう。どうか許してほしい。もしかしたらそこらへんの電柱に語っとけと思われているかもしれないな。きっとこんな私みたいな人間が沢山いるから水商売の人々はこの世界で活躍なさっているのかもしれない。

 

とりあえず、石鹸の魅力を語りつくすことにうつることにする。

 

たしかに、「石鹸」とはモノである。ただの。「趣味」の一端を担えないのではと思われる程ちっぽけな、ただ私が好きな「モノ」というだけ。でも、石鹸には確実に抗えない魅力があるのだ。

 

 

まず、石鹸の定義からおさらいしよう。ちなみに、この定義は椎名まるか論であり、一般の論とは多少定義が違うかもしれないということは申し添えておく。

 

石鹸とは、

①固形である(液体・ジェル・クリーム状のものは省く)

②水につけてごしごしすると水に溶け込み、泡がでる(でる泡の状態は基本的に問わないが、あまりにも泡と呼べる状態でないものは省くex. つけた水によってのみ発生したと思われる泡など。いわば、糖尿病の人の尿の泡立ちのような)

③なんらかのにおいがする(いい匂い・くさいにおいは問わない。とんでもなく素敵な宮殿のバラのようなにおいがしても、嫌いな上司のウンチのようなにおいがしても、または無機質なプラスチックのようなにおいがしても、いずれも③を満たすこととする)

 

 

このような物体が、一体なぜヒトを惹きつけるのであろう。上記の定義に沿って、ひとつひとつ解説をしていく。

 

 

①固形である

 

これは、石鹸を大きく定義づけるファクターであるが、それと同時に、日本人の生まれ持ったいわば「和の心」、もっといえば「わびさび」に基づくものだといっても過言ではないだろう。

花はなぜ美しいのか?そう聞かれて、どう答えるだろうか。「いいにおいがする」?「色が鮮やか」?「自然の生み出した形に感動する」?そのどれも正解だがそのどれも間違っているとしか言えない。

日本人たるもの、答えは勿論、盛者必衰の理。「花は散るからこそ美しい」のだ。

かの有名な能のパイオニア世阿弥。彼もこのように言っている。

いづれの花か散らで残るべき。散るゆえによりて、咲くころあればめづらしきなり。」

偏差値70の私が一応解説しておくが、現代語に訳すと「一体なんの花が散らずにいるであろうか。散るからこそ、咲いているときが素晴らしいのだ」ということだと思う。たぶん。(めづらしは、現代語でいう珍しいではなく、素晴らしい!ブラボー!みたいな称賛する言葉だった気がする)

 

つまり、固形石鹸もそういうことだ。なくなってゆく過程が目に見えてわかるので、いとをかしである。

たとえば、ハンドソープをはじめ洗顔料やシャンプーなど、チューブ状や、ポンプ式の洗剤は沢山でている。

だが、チューブ式やポンプ式の洗剤は、「減っているな~、もうすぐなくなるのかな?」という実感が皆無である。

たとえばチューブ式の洗顔料や歯磨き粉は握りしめてむにゅむにゅぶりぶり出して何も考えず怠惰に毎日使い続け、しばらくたってから急に「そういえば、コレもう軽くなったな…そろそろなくなるか?」と思ってからいつなくなるかビクビクし、といっても全くなくならず、もしかしたらまだ使えるのでは…いやでももう最後かな…と何度も考えて、精神的に不安定なまま最期はチューブを折りに折った無様な姿で一生を終える。

 

また、ハンドソープやシャンプー、マウスウォッシュなどが多いポンプ式の洗剤は、買ってしばらく使っていたら忘れたころに急になくなってしまう。

忙しい毎日の喧騒に巻き込まれて、スコスコいいだしたそれを歓迎する心の余裕は持てない。むしろ疎まれて一生を終えると言ってもいい。

「シャンプーなくなった!だっる」という言葉、人生で一回は使ったことがあるのではないだろうか。また、一回は聞いたことがあるのではないだろうか。

それもすべて、ポンプ式につめられて売り出されたことが全ての原因なのだ。

 

一方固形石鹸はどうか。

まず、毎日残量が目に見えてわかる。忙しい毎日でも、確かに手に握って、重さや触感を感じて、「ああ、昨日より減ったな」と人生や時間のはかなさを感じられる。

なんなら、使った後で、「ああ、使う前より確かに減ったんだろうなあ」と思うと、石鹸としての宿命を感じてなんだか切なくなる。と同時に、自分も命をすり減らして生きているんだなあ、と実感できる。

形がだんだん丸みをおびてくるのも非常に趣ぶかい。そこを自分が削り取った、という達成感と、一番最初のごつごつ感から、なめらかになっていく過程。

むしろ痛いくらいの角がするどい石鹸を使っていると、ああ、そういえば昨日はこんなことが不安だったなあ、と思う。実際はなんともなかったなあ、とも。もしかしたら、今抱えている人生への悩みも不安も、時間が経てば解決していくのではないか、とすら思う。

 

ここまで力説したら全世界にわかって頂けたはずだ。ああ、石鹸が固形である意味は、盛者必衰の理、花は散るからこそ美しいことと同義であるのか、と。

スイーツだって、直前にしょっぱいものを食べたからおいしいのだ。それと一緒だ。うまく理論構成ができているか分からないけれど。

なんともまあ、固形石鹸のめづらしきことよ。

 

ちょっと疲れたので、②、③、については後述させて頂く。

まだほんの1/3だが、つぎのハンドソープは固形石鹸にしようかな、と思って頂ける方が世界に一人でも増えたらうれしい。

 

by MARCA Sheena

映画忘備録

・紙の月

すごいどこにでもいそうな、真面目そうな感じの主婦が大学生にハマるなんて、そんな人生があるとは。

あんな普通のひとがあんな生活送ってるとは…これから毎朝の満員電車で人を見る目が変わりそう。

どんどん後戻りできそうになくなっていくのを見るのは、他人事ながら心苦しかった。大学生が金を貢がれて勘違い野郎みたいになっていくのも悲しかった。お金、私も欲しいけど手に入れたら人って変わるのか…と思ったりして。

お金も幸せの尺度ではあると思うし、例えば自分はもちろん友達や親が金持ちになったらよろこばしいけど、あんまり持ちすぎるのも考えものだなあと思った。

田辺誠一大好きだから、いたたまれなかった…

なんにせよ、自分にはあんなこと度胸がなくて絶対できない。スケールの小さい自分にちょっとだけ失望した。

 

・湯を沸かすほどの愛

多分紙の月と同じ女優さんだと思うんだけど…紙の月が幸薄そうすぎて悲しかったから元気そうなのが見れてよかった。

結構しょうげきなことが多かったけど、最後はほんとにぎょえ?!と思った。

いろいろありえへんけど、この人たちにとっては確かにそれが最良な選択やったような気もする。

みんな幸せになってくれたらいいなあ。

 

・Sing!

ずっと見たかった!字幕がよかったけど渋々吹き替え見た。

でもみんな可愛くて歌うまくてよかった。私も大衆の前で歌ったり踊ったりしたいわ。

観客ノリノリなのも、なんかよくわからんけどアメリカってこんな感じか〜〜!と思って素敵だった。

なんかよくわからんけど泣いたりしちゃった…夢が叶うっていいね。私もスーパースター目指そうかなあ。

映画忘備録

アマゾンプライム会員になってもう3ヶ月ほど。

送料無料が魅力という一心で会員になったが、よくよく考えるとアマゾンミュージックにプライムビデオも使えるということで、映画を趣味にしようとおもったわたしがここ数日で睡眠時間を縫ってみた映画を、忘れないうちに書き溜めていこうとおもう。

 

まず、心に止めておきたいのが、プライムビデオは古いものが多い。新作・話題作はあまりない(まあ、月額数百円で受けられる恩恵のうちの一つであるから当然だが)。

あまり映画を見ないわたしには、昔の映画も新鮮なのだ。

 

以下、忘備録。

 

ヘルタースケルター

わたしの愛する沢尻エリカの主演作。とにかく、美しい。

沢尻エリカのもって生まれた美貌(役中では整形なのだが)はもちろん、インテリアや、窓一枚とっても美しい。

アダルトなシーンもあるが、決して興奮するしてり、照れたりするようなこともなく、ただ芸術を見ているような感じだった。

こんなものを作れる人とは?とおもって調べると、監督はどうやら写真家さん。納得。

沢尻エリカの熱演もすごい。

でも、女で生まれた以上、美しさの追求は当然だし、承認欲求もあるし、時間とともに失われるアイデンティティへの恐怖とか・・・、関係ない世界なようで誰もがもってる感性?感情?に共感できる映画でもあった。

 

さくらん

ヘルタースケルターが美しくて美しくて、同じ監督の作品を見てしまった。

こちらもとっても色彩が美しい。女優さんも綺麗だし、成宮くんも安藤政信もかっこいい。

夢を見させるための、いわば偽りの世界の中での本当の気持ち?愛?を追い求めるというか・・・

漫画は見たことないけど、思い切りがあって、それで安易ににげない、最後が安野モヨコっぽくてやっぱり人生の憧れだなあと思った。

息子が生まれたらせいじって名前にしたい。

 

嫌われ松子の一生

波乱万丈、なんだか人の運が悪い、きっともっと不幸になるんだってわかるけど、いろいろな経験ができて、素敵な友達がいて、愛に溢れる素直で美人な松子の人生は、わたしの人生を5でかけても足りないくらい、価値のあるものだと思った。

道ですれ違う普通のひとにも、一人一人にいろんな人生があるのかなあ、とか思った。

素直で可愛らしくて、共感できるからこそ見てるひと全員に応援させてしまうのかも。

最後に、みんなが松子のよく歌う歌をそれぞれ歌った瞬間、ああ、たしかに本当に松子は神様なんだなと思った。

つぎのじんせいはどうか幸せに。自由になりますように。

ペットロスな日々

 

 

実に、仕事以外で執筆するのは数か月ぶりだ。

そうだ何か書こうと思いきるとき、大抵何か特別なことがある時なのだが、ちょうど大切なものを失ってみて、その私の記憶というあやふやなものしか残っていない、わたしの「大切なもの」の形を少しでもすくい上げてくっきりと残したいと思った。

 

というのも、題名通り、ちょうど1,2か月ほど前、私ははじめて、大切なものを失った。

 

それは、「家族」という名のペットである。

 

後戻りのできない恐怖。いままで大切なものを無くした事は無かったし、人生に失望もしたことがなかったが、こんな気持ちになったのは23年生きてきて、はじめてのことだった。

それは、人生の中で一番と言っていいほど悲しかった…といいたいところだが、なんだか今まで経験し、人に表現した感情の中で、適切な言葉が見つからない感情に包まれた。

悲しい、といえばその感情も少しはあったかもしれない。けれど、そんな既存の言葉では到底表現できないのだ。

あえて名づけるとすれば、それは「無」だった。

それは決して何も考えていないわけではなく、ただ、ボンヤリと、喪失感のような、心に穴が開いたような、そんな月並みな言葉では表現できない、表現したくない程の虚無だった。

五感を何も駆使出来ないような脱力感と、そのことしか考えられない集中力。

死を受けとめられない、という言葉は聞いたことがあるが、ごめんね、死んじゃったの、と涙交じりにお母さんに言われた時も、嘘のような夢のような幻のような、それでもやはり現実なような、受け止められない気もするが、心のどこか奥底で受け止めているような、体中が矛盾で包まれていた。

 

これほどまでに衝撃を受けたのには理由がある。自慢じゃないが、私は今まで大切な人を亡くしたことがなかった。

おじいちゃんやおばあちゃん等主要な人々は生まれてきたときには既に亡くなっていたり、遠いところに住んでいて人生で数回しか会った記憶がなかったりしており、実家で同居していたおばあちゃんや両親、姉は全員それなりに元気に存命中だ。

数日で死んだ金魚に情はうつらなかったし、昔飼っていた数匹のウサギはたまーに話しかけるくらいで、特に名前をつけたり呼んだりした記憶もない。

だから、幼少期から名前を付けて、呼んで、毎日話しかけて抱きしめて散歩に行って、時には怒って、作文が宿題になれば必ず彼について書き、図工の時間は絵でも粘土でも必ず登場させていた、私がずっと思い入れを持っていた大切なものが消えたことは、自分にとって人生で初めての衝撃だったのである。

 

だから、昔から「死」について、自分には他人事だと思っていた。死ぬ可能性が皆にあることは知っている。

でも、私と私の周りだけは別だ。多分、この先自分が消えてなくなるまで、誰も死なない。

そうかたくなに感じている自分がいた。

だけれど、だんだんと嫌な兆候は少しずつ少しずつ表れていった。

テレビで芸能人が死んだニュースが流れても、コレ誰?から、この人亡くなったのか!と衝撃を受けたり、元気いっぱいだった近所の犬がだんだんよぼよぼになっていたり、愛犬の尻にできものが増えたり、家の中でウンチを漏らしだしたり。

 

そのたび、色々と彼が死ぬことを想像しては泣き暮らしていた。

彼の目の前で涙ぐんでしまったりもしたし、電車内で涙をぬぐったこともある。

だから、シミュレーションは完璧だと思った。

けれど、ついに彼の死に目に会うことはできなかったし、現実を受け止めることもできなかった。

 

そんな失意の中、彼が亡くなってしばらくして、アドベンチャーワールドへ行くことがあった。

アドベンチャーワールドとは、和歌山県にある、色々な動物と触れ合えるスポットだ。

パンダからペンギンからキリンまで、沢山の種類の動物がいる。

動物は元来大好きであるから、彼への心の傷を持ったまま、それでもわくわくしながら向かった。

そこで、犬と触れ合えるスペース、というものがあった。

犬の触れ合いコーナーがあるなら興奮する。なぜなら犬はすべからく可愛いからだ。だから率先して行くのだ。

そんな方程式が自分にあったからかもしれない。私は犬という単語に少し心を傷つけながら、それでも犬に立ち向かおうと、触れ合いコーナーへ向かった。

 

触れ合いコーナーの犬たちは、確かに犬だった。けれども、いつも感じるこみ上げる可愛さがない。

確かに、みんな犬として、綺麗な血統書付きのような犬である。うちの犬のような、何と何のミックスか分からない犬とは違う。

けれども、彼らはまるで生きていないみたいだった。

 

生きていない、といえば語弊があるかもしれない。立ち上がり駆け抜ける彼らに生命力を感じないといえばうそになる。

けれども、どうやったって、彼らの感情をくみ取ることは出来なかった。

理解できないことがこんなに怖いとは知らなかった。犬が嫌いな人が笑顔の可愛い犬に「襲われそう!」と言って無駄に恐れる気持ちが分かった。

同時に、悲しくもなった。きっと一匹一匹、それぞれ性格や個性があって、自己表現がしたいに決まってる。それがくみ取れない人間がいることが、彼らの人生に切なさを加えている、と思った。

 

それと同時に、わたしが愛犬の気持ちが手に取るようにわかって、表情がとてつもなく豊かに見えたこの彼との十数年は、びっくりするほど幸せだったのだ、と気づいた。

そして、私の人生の節目で体に10円ハゲをつくるほどいろいろ心配してくれていた愛犬も、私の気持ちを汲んでくれていたに違いない。

いつも抱き着いたりちょっかいばかりかけて、散歩もたまにしかいかないし、彼に特別好かれていた自信はないけれど、それでも、ほんの一瞬でも、彼の人生に私という存在が紛れもなく登場していたのだ、と思ったとき、生まれてはじめて私は自分の人生を、生き方を肯定できた。とてつもなく大きな力に救われた気がした。大袈裟だと思うかもしれないが、私にとって彼は、それほどまでに大きな存在なのだ。

 

失ってわかるものがある、とはよく言ったものだが、実にその通りだった。

悲しい時間の中で、少しずつ時間が私を癒していくうち、私が彼を心から愛していたことがわかってきた。

いや、愛している、といった方が正確かもしれない。

こと彼への愛情については、世界の誰も、きっと神様でさえ、私を偽善者と呼ぶことは出来ない。

私は形に見えないものが苦手だ。信じていないわけではないが、すぐに一片の曇りを探してしまう。

けれど、私の彼への嘘偽りない愛情、これだけは確実に存在すると胸をはって言える。

本当に、大好きなのだ。

もう二度と、この私の気持ちを伝える機会がないかもしれない、という事実が胸に刺さる。

本当は、私のこの大好きだという気持ちを彼に伝えてほしいけれど…けれど、そんなことどうでもいいや。

神様仏さま、もし天国があるとすれば、そこではきっと彼の体の傷を治してあげてください、元気に飛び回って走り回れる体に戻してあげてください。

グルメすぎてドッグフードは食べません。少しくらい太っていいので焼肉パーティーしてあげてください。

可愛い気の合う犬と、素敵なセカンドライフが過ごせますように。

もしも生まれ変わったら、誰かに愛されながら、散歩も行き放題の、素敵な家庭にもらわれて、悔いのない一生が過ごせますように。

どうかお願いします。もし生まれ変わっても、私は彼のことが大好きです。どうか、幸せな未来を、彼に用意してください。よろしくお願いします。